夜が明ける、その少し前。
15名の山伏たちと修行に入った。山の姿はまだ見えない。
足元の石と、まだ眠る草木に配慮して、自分の呼吸をまず整えていく。
みな眠っている。ここは山の領域。
私たちは客人である。まったく、主人であるなどとは思えない。
暗闇をにぎやかす心音、息。
静まれ・・・・・・落ち着け・・・
山は佛。神佛の領域。
山は眠っている。起こすのはこちら側、ただ人間の傲慢である。

ずっと電灯の下で暮らしてきた我々にとって
本来の太陽、星空、月の恩恵などは想像もできてやしない。
何も無理に苛酷な修行をしなくともよい。
生身の人間として自然とともに、一度でも寝起きしてみるだけ。それだけでよい。
このような状況をビジネスの場面に寄せれば、
「現代の社会構造における機会損失(チャンスロス)の膨らみ」とも言い換えられるのではないだろうか。
急増する親不孝、先祖不孝。
葬儀なんて必要ない。
死んだら何もない。
これを虚無主義(ニヒリズム)というが、私からすればコロナウイルスと一緒であり、気づく機会さえ与えられない現代人の流行病(はやりやまい)に思える。個々人や家族の在り方もさることながら、社会・教育構造の問題であるとも言いたい。
こんな状況だ。仏教の経典にいう四恩(父母・衆生・国王・三宝)に報いることができないのも仕方がない。
四恩に因んで少し話が逸れるが、
古来より、指導者は支配者である、とよく認識される残念な伝統は現代にも続いているようだ。
よって仏教は、王に仏法を広めた。「法(道理・真理)の王に倣い、国の王となれるように」と。
これはどのリーダーにも言えることで、慈悲と智慧、つまり思いやり・配慮と行動力・知恵がいる。
日本においては聖徳太子以来、この考え方は根付き、今日において仏教の僧侶たちが修行するのも四恩のためと言ってよい。
さて、薬を飲めば病は癒えるのか。
いや、処方箋をもらうだけ、薬に頼るだけでは根本治療にならない。
生活習慣、心の在り方、生命のリズムを見直すところから、治療していかなければならない。
実際には
天命ともいえる、そもそもの命の波長(リズム・太さ・長さ)がある。
しばしば業(ごう・カルマ)は善業を差し置いて悪業だけで語られる。
そして今の生命存在だけで語られることによって、逃れることのできない残虐な意味で捉えられがちである。
ただ、これも間違いであり、
生まれ変わり、輪廻する生命として「わたし」を捉え直したときに、本当のことが見えてくる。
現代社会にはびこる機会損失をどうにかしたい。
この答えが広大な自然環境、祈りと山、生命と海にあると私は思っている。
すべての生命存在を支える大地、自然、地球、宇宙の不思議に、生身で触れること。
自分の親・先祖に祈り、生命のリズムを知ること。
百年、千年の単位を超えて、数億年も前の動植物の化石に触れれば、
自らの五官(眼・耳・鼻・舌・皮膚)、呼吸の不思議に立ち返る。
そう。 星と月明かりの山に今、静かに、呼吸している。
私がよく口にする、
「問題はしばしば、自己(だけで)完結している時に起きてる」というのは、
生きる力にも関わる。
無気力。死にたい。もうどうでもいい・・・。
山で顔を空に上げるだけ。
海に浮かぶだけ。
暗闇に、陽が差し昇る。
大丈夫! 生命のリズムを思い出せる瞬間がある。

やがて空の色がわずかに変わり、
山の輪郭が静かに現れる。
同じように、あなたの次の呼吸が露わになってくるだろう。
自然のなかで過ごせば、
わずかな変化が、いつのまにか心地よいものへと変わる。
山寺へ。 神社へ行こう。
川の流れ 虫の声 木々の囁き
静かに祈ろう
わたしのため 山々のいのり
※ご先祖 お盆参り を希望の方はお申し出ください
毎週日曜 朝6時「勤行・お茶」。
第二日曜日は福山霊苑にてお施餓鬼供養。
2日(日)「滝修行」朝5時 お寺出発
3日(月) 「毘沙門天」朝6時
17日(月)「大黒天 浴餅供・一時千座法」23時
21日(金)「万灯会・護摩」19時30分から
万灯会の申込みは本堂の紙にて