法話

海であることを思い出す

お彼岸というのは、春と秋、昼と夜の長さが同じになる頃にお参りをする。

暑さ寒さも彼岸まで。この言い伝え一つ取っても、先人の知恵、体験に思わず想いを巡らせます。

季節を分かち、また一つ調っていく。自分が何を感じているのか。このお彼岸に感性を磨いて欲しいと思います。

また、この「ととのう」は大事なこと。心を調え、姿勢を調え、呼吸を調え、自分の生命・存在そのもの、その在り様を静かに見つめていくこと。

お彼岸は、もともと仏道修行の日でもある。

さて、人生は荒波である、と言います。

皆さんも、いろいろな波を越えてこられたと思います。自分で望んだわけではない波もあったでしょう。

家庭のこと、仕事のこと、人間関係のこと、社会のこと。外から押し寄せてくる波に、自分の船を乗せ進まなければならないこともあったでしょう。

今日は、もう一つの見つめたい波があります。

それは、自分の心の中に起こる波です。

腹が立つ。くよくよする。不安になる。欲が出る。人をうらやましく思う。そういう思いは、一瞬一瞬に起こっては消えていきます。

ところが私たちは、その波を見て、「これが自分だ」と思い込んでしまうことがあります。

怒りが起これば、「私は怒りっぽい人間だ」と思う。不安が起これば、「私は弱い人間だ」と思う。欲が起これば、「私はだめな人間だ」と思う。

けれども、本当にそうでしょうか。

波の本体は、何でしょうか。

波の本体は、海です。

波だけを見ていると、上がったり下がったり、荒れたり静まったりしているように見えます。けれども、その波は海を離れてはありません。波は海のはたらきです。

同じように、私たちの心に起こる怒りや悲しみや不安も、それだけが自分のすべてではありません。

波が起こっている。けれども、その奥に、もっと広いものがある。

仏教では、私たちを小さな波だけの存在と見ていません。あなたの中には仏になる性質(仏性)がある。無限の可能性を秘めた、海のような心があると教えています。

ただし、人間はなかなかそれを信じられません。

小さなことで腹を立てます。言われた一言をいつまでも気にします。先のことを心配します。自分を信じることができません。

だからこそ、修行があり、どの道においても精進することは大切とされるのです。

姿勢を調え、呼吸を静かに深くしていく。すると、荒れていた心の波が、少しずつ静まってまいります。波立つ水面が、だんだん静かな水面になっていくようなものです。

自分の心に満月を思い浮かべる修行があります。静かな水面に、明るい月が映るように、自分の心を澄ませていくのです。

けれども、心を静かにすることだけが目的ではありません。静かな水面になって、初めて気づくことがあります。

自分は波だけではなかった。自分は海を離れてはいなかった。もっと大きないのちに支えられて、今ここにあるのだということです。

この波と海、静かな水面の関係を一言で言うならば、「自分がどう存在するか」という問いなのです。

私たちは、学校で何を学んできたでしょうか。家庭でどのような体験をしてきたでしょうか。

知識と技術を学んだが、何ができるか、どう振る舞うか、その土台にあるはずの「自分がどのように在るのか」そのものを問わなければなりません。

仏道修行は、お経が唱えられるようになる、葬儀ができるようになる、知識や技術だけを教えるものではなく、自分の在りようそのものを深めていくものです。そのことを「悟り(覚り)・理」という言葉にできると思います。

またこの悟りは、損得の世界では辿り着けません。今の人生(今生・今世)だけの定規だけでは見えて来ません。

私たちは何によって今ここにあるのだろう、という問いを深く持たなければなりません。

水、森、大地、太陽、地球があり、宇宙の営みがあります。そして、自分へと命をつないできた親・先祖があります。

自分一人で生きているのではありません。縦の時間・歴史、横の広がり・繋がりの中で、今ここに立っています。

学校で自然を学ぶこと。地域の春秋のお祭りで、季節の巡りや実りに手を合わせること。家でご先祖様に手を合わせること。そういう一つ一つの営みの中に、自分の存在を見つめ直す入口があります。

私は、こういう学びを、五感・感性の教育と言ってもよいと思います。

何かを知識として覚えるだけではありません。水のありがたさを感じる。土の匂いを感じる。木陰の涼しさを感じる。ご先祖様から続いてきた命の流れを感じる。

自分を支えているものに、心が向くようになることです。

私たちが「これが私だ」と握りしめているものは、本当は固定できるようなものではありません。

起こっては消える波を、自分そのものだと思い込まない。つかもうとしてもつかみ切れない、広い生命の道理に目覚めていくのです。

そう気づいた時、波はなくなるのでしょうか。

なくなりません。

むしろ、仏の道理・仏の心になった時には、人の苦しみを聞けば、心が動きます。困っている人を見れば、何かしてあげたいと思います。子や孫の幸せを願えば、心に波も立つ。

けれども、その波は、ただの迷いの波ではありません。

自分だけよければよいという波ではなく、誰かの幸せを願う波になっていく。人を傷つける波ではなく、人を生かそうとする波になっていく。

ここに仏道の不思議があります。

煩悩をただ押さえつけるだけではありません。自分の本来のあり方に気づくことによって、その力の向きが変わっていくのです。

お彼岸にお参りをするということは、亡くなった方に手を合わせるだけではなく、先祖や亡き方が、あの世で魂の修行をされている。そのご修行に、私たちもこの世で少しご一緒させていただくという意味があります。

怒りっぽい人は、このお彼岸だけでも、少し怒りを静めてみる。意地悪な心が起こる人は、このお彼岸だけでも、少し優しくしてみる。優しい人は、さらに優しくしてみる。

ご先祖様は、きっと見てくださっています。

見られていると思うと、少し窮屈かもしれません。けれども、見守っていただいていると思えば、心が温かくなります。

今日、手を合わせながら、自分に聞いてみてください。

「私は、波だけを自分だと思っていなかっただろうか。

私は、海であることを忘れていなかっただろうか。

そして、この海のようないのちを、誰のために、どのように生かしていこうか。」

お彼岸の一日を、そのように過ごしていただければと思います。

令和八年九月二十一日


毎週日曜 朝6時「勤行・お茶」 第二は福山霊苑

23日(水曜/秋分の日)「お彼岸の合同供養祭」
10時 弘元寺「法話・供養」 10時45分頃 福山霊苑

3日(土) 「毘沙門天」朝6時

4日(日)「滝修行」朝5時半にお寺を出発です
「水子供養」護摩 10時より

5日(月) 「瞑想・お勉強会(十三仏)」朝10~12時

7日(水)「弁財天 護摩」20時~

16日(月)「大黒天 浴餅供・一時千座法」23時

21日(水)「御縁日の護摩」10時~ 20時~

18日(日)~24日
「1週間の前修行中」朝5時~

25日(日)
「柴燈護摩・火渡り」入佛記念法要

 

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