縁起

文書から

古い文書によると、この箕島という地については、以下のように記されています。

島には水が多く、それゆえに水の島と呼ばれ、転じて三の島。
または蓑島や箕島とも書かれる。神功皇后が西へ旅する際に、御船を云々……

古い歌には、

あらわれて 幾世経るなん 海神の 底つ宝の かくれ蓑島
(あらわれて いくよふるなん わだつみの そこつたからの かくれみのしま)

また、「箕」という文字は、歓喜天(聖天さま)の衆生済度の誓いの象徴であるシンボル(三摩耶形)の「箕」と同じです。

この「箕島」という地は、神佛の深い場所のようです。

この縁により、毎朝歓喜天の浴油秘法を修行しています。

開山の由来

このお寺の開山は石鎚山の極楽寺において、
中興阿闍梨 宥心上人が修法中に、

「備後州 箕島の地は、大同年間に弘法大師が諸国を巡歴していた際、滞在されて種々の秘法を修行された御遺跡なり。現在でも大師が日々に影向される。真言密教修行に相応しい霊地なり」と感得されました。

宥心上人は、「法は人によって興廃するもの。其の人に……。」と言い、弟子の 宥榮法師に対して、
「石鎚を下山し、弘法大師を本尊として、大師の秘法を継承する庵を結べ。喜ぶべし、尊ぶべし」と告げました。

こうして、吉祥山 弘元寺が開かれました。

宥榮法師、寺号の由来について

開山の宥榮法師は初め、臨済禅の師僧に従って得度を受けましたが、深く悟りの秘奥を探求する念やまず、真言密教を求め、石鎚山の極楽寺の門に入り、宥心阿闍梨に弟子入りしました。
宥榮法師は験力に優れ、地相や家相、方位に通じていましたが、師の宥心上人は弟子の験力の使用について極力抑制しました。
宥榮法師は在俗の石鎚修験者から、高齢ながらにして真言密教の行を修め、阿闍梨の位を受けました。

機は熟し、「弘法大師を本尊として、大師の秘法を継承する庵を結べ」という言葉の下、
大正初期に、まず鎮守として八大竜王を勧請しました。

そして、いよいよ御本尊をと、当時、御室仁和寺の総長であった王至森寺の瀬川僧正の好配を得て、仁和寺から弘法大師の御像を奉迎し、修復安置して、「御室 日切大師教会」として始まりました。

続いて、箕島の一円に、四国八十八ヶ所各本堂、大師堂の砂を埋めて、箕島新四国八十八ヶ所を建立しました。

しばらくして、師の宥心上人が自分の又の名である「弘元坊」を取って、寺号が「吉祥山 日切大師 弘元寺」と定まりました。

住職について

初代 宥榮

開山 「宥榮法師」。師は石鎚山極楽寺の宥心上人。

二代 宥善

「宥善大僧正」。師は宥心上人。

三代 正和

四代 泰教

現住職

寺歴

1917 大正6年9月14日八大竜王勧請…石鎚大権現は遙か以前に此の地に勧請されています。
1924 大正13年旧8月20日本尊(弘法大師 尊像)勧請
1926 大正15年8月20日本堂移転
1927 昭和2年旧8月20日新四国霊場開眼
1977 昭和52年旧8月20日水子地蔵建立開眼
2003 平成15年9月14日本堂落慶…記念法要にて約70年ぶりの秘仏ご本尊のご開帳