法話

宥善和尚の人生をふりかえって10

【宥善語録】
本能のままに生きている。それを動物的心という。
大自然、大宇宙を自分の体とし、生き通し、生き続ける私に気付くこと。
そうなった時、法界は心のすべてになっている。それを知ることじゃ。

 宥善和尚(大先生)の人生を振り返るシリーズを
 半年もお休みしたので、、、再開したいと思います。

「宥善和尚の人生を振り返って⑩」

 昭和19年12月 當陽県當陽付近、常徳作戦。
 昭和20年2月 襄樊(ジョウハン)作戦に参加。

 和尚は24才。この頃の戦場の思い出を聞いたことがある。
とにかく沢山の日本兵が亡くなった。生きるのに必死であった時期があった。
「弔い合戦」と言って、仲間を弔うべく敵と戦おうというのがあって。その時、敵は大勢で、突撃したら皆死ぬだろうなと思い、突撃したら、とにかくどうにかなったのだが、そうしたら仲間の日本兵が皆ちゃんと墓を作ってもらっていてな。それを見て自分たちは何をやっているのだろうと思ったそうだ。

 日本人も中国人も、いい者もおれば悪い者もおったけれど、
敵の日本兵の亡骸を丁寧に埋葬してくれるような者もあの頃はおった。
この頃の中国人は立派だった。人間を尊ぶ心のある者が多かった。

 自分が生きるか死ぬかという時に相手のことまで大切にできるか。
なかなか出来ん。だけれども、そういったことが本当は大切なんよ。

《後の(1966年)文化大革命では、思想統制のために中国の僧侶の殆どが殺されてしまった。あの頃の僧侶たちは人々に、困った人がいたらどんな人でも助けなさい、死者を大切に扱いなさいと教えてくれていた。そういった当たり前のことを教えてくれる僧侶がいるかいないか、それは国にとって、とても大きなことで、大切なことだと和尚は語った。》

 4月 部隊の転進行軍に伴い當陽を出発。
 5月20日 25才(和尚、戸籍上の誕生日)。

 6月 湖南省 信陽にて信陽患者療養所に入院。

和尚は腸チフスとなり、病院の中で長く生死をさ迷った。軍医殿が、
「まだ生きているのか?」とよく気に掛けてくれていたそうだ。
他の者には声をかけないのに、何が珍しかったのか、お陰をいただいたと語っていた。

 病気になって入院するまでは、和尚は僧侶として同郷の者たちとよく話をしたそうである。
直感にすぐれた和尚が色々と当てたり、生きて帰ったらまた会おうとよく励まし合ったそうだ。

 病気に倒れて何とも情けないと思ったが、そのまま戦地を進行した仲間たちは後の大きな戦闘で多く亡くなったそうである。病気になっていなかったら、死んでいたかもしれなかったと和尚は話していた。

 8月1日 軍曹となる。
 8月15日 終戦。

 このあと和尚がどのようにして帰って来たのかは詳しく聞いたことがない。
ただ9月に和尚の母が亡くなるのだが、それは感じ取っていたそうだ。

  昭和21年
 2月22日 上海港を出港。
 2月26日 鹿児島港へ入港。
    同日 現役満期除隊

 そこからどうにか列車に乗って福山まで戻るが、福山も焼け野原のように何も無くなっていた。
駅で途方に暮れている所、何と親戚のおじさんに出くわした。言いにくい顔をするおじさん。
どうしたのか尋ねると、母親が亡くなったと教えてくれた。
そうだろうと思っていたから、驚かなかったが、空虚な気持ちは変わらない。
おじさんが自転車に乗せてくれ、港近くのおじさんの家まで着いた。
家に上がれと言われたが、シラミがいるからと断った。
気にするなと服をはたき、綺麗にしてくれ、体を洗ってくれた。

有り難かったのと、生きて帰って来たんだなと、
ほっとする気持ちに、少し、なったのを覚えている。
久しぶりに、こんな温い世話をいただいた。
戦地ではずっと無かったものだ。

 そのあと、和尚がどのように過ごしたのか、
どんな気持ちになったのか、あまり詳しく聞いたことがない。
和尚の兄も昭和20年6月30日にフィリピン、レイテ島のカンキポッド山付近で亡くなる。

 和尚に残った家族は15才離れた一番上のお姉さんだけ。
そして亡くなったお兄さんの妻と結婚する。当時はそうやって戦争で亡くなった兄の妻と結婚するのが多かった。みんな悲しみのなか、どうにか生きてきた。

自分だけ生きて帰って申し訳なく思うこともあったし、
生きて帰った者と日本で会えた時には本当に嬉しい気持ちにもなった。

 親、先祖や師匠の祈り、仏さんが、戦地の中を、私を生かしてくれた。そうなんよ。

     終戦までの和尚の話はここ迄である。
              令和三年四月二十一日

身心を調えて、生活いたしましょう!

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