法話

額に泥。寸分の反省

「額に泥。寸分の反省」

 今日は夏至。あたりまえのように昼間がながく、夜の短い日にあたる。
地球は生まれてこのかた、どのようなことを思いながら多くの生命の産声と死を見送ってきたのだろう。我々、寿命の短い人間でさえも家族、友人、動物昆虫草花らの誕生と死に幾度とであう。

 一喜一憂、歓喜と悲嘆にくれながら人生は始まり、
おわりを乗り越えてまた新たな生命として始まる。

 私たちは生まれ変わる。

めぐる輪の中に 私たちはいる、
というその感覚からは「輪廻」という漢字があてがわれる。
繰り返しの中に、迷いの中にある私たちはいる。

 自分の習慣、人生をグッと凝らし視れば、
恐らく、不思議とも思える繰り返しの数の多さに気付き驚く。
好きなものは中々変えられないし、やめたいものもやめられない。
グラスの水をグラスへ寸分無くまた注ぐように変わらない。そんなことが多くある。

 ただしそれは目に見える次元での話である。
また頭を切り替えて思惟してみれば、習慣のなかに生きているからこそ、
私たちは「その習慣を良いものにして生きることの重要性」に気付かねばならない。

 またグラスからグラスへ中身の水は変わらないかもしれないが、
手に取るグラスを変えてみてはどうだろうか。

日々の生活でも一緒である。
無意識に同じような選択をわたしたちはしている。
いや、させられているのだ。脳にか?身体にか?魂にか?
 
 こういったことを遙か昔の仏道修行者たちも勿論考えており、
その理解は体系化され、また多くの経典に收められ※智慧は継承されている
(※智慧は仏のように悟ったもの、知恵は生滅や有無を含むこの世界に限り有効なもの)。
目先だけ、自分一代かぎりの思考は貧しいものである。

 思考をする。
 また頭(脳)の捉われから放たれ、真の智慧に目覚めるために禅定に入り、瞑想をする。
 そしてはっと五体の感覚に戻っては、言語を越えた瞑想感覚に対して言語的統合を図る。
 眼耳鼻舌身意の六つの感覚に「くりかえしの習性」があることを発見する。
 繰り返しの働きとなるを「業(ごう・カルマ)」と呼ぶ。
 業を抱きかかえている意識や、それを生まれ変わりをしてもずっと保持し続ける意識の
 ※金庫を阿頼耶識と呼ぶ(※良いも悪いも貯めこむもの)。
 業を誘発するのは結局、理解する智慧の足らないこと。これを仏教では「無明」と名付ける。

その事柄に詳しくないことを「~に明るくない」と使うが、
この日本語も道理に明るくないことを意味する仏教用語から来ているのかもしれない。

 これは一体なにを意味するのだろう・・・と、
たとえば真っ暗闇の心で考えれば答えは当然くらやみとなる。
一体わたしに何を与えてくれている問題なのだろう、
どのような発展、気付きを与えてくれているのだろう・・・と
積極的、明るいこころで考えれば、当然答えも明るいものとなる。道理である。。

 しかし簡単なことほど難しい。
そして出来ない原因をうすうすは皆自分で分かっていることが多い。
たとえば自身のこころが弱いから。曇っているから、、、と。
おっと既にネガティブ、自虐的。消極的である。
自分は大切にしたほうがいい。

 自分も他のいのちも大切に生きる習慣は良い。
他の命を大切にする、その手を伸ばす一つの力(習慣)が
自己のちいさな執着心を押さえ、いつもとは違うグラスを取る変化を与えるのだ。

 仏教では八正道という基礎項目の中において既に「ただしい生活を心がけなさい」と教えている。
土の下の根っこを取り除くには、まず土の上の伸びる草葉をぐっと握らねば始まらない。

自分は何なのか。自分の意識はどこへ向かって伸びているのか。ぐっとつかむ。
これが禅定の止める瞑想の準備運動である。
また密教や仏の力をお借りして一気に根っこから取る方法もあるが、
またこれは別の機会に置いて、背骨を伸ばさないと声が出ないように智慧も出ない。
寿命も害する。携帯やパソコンばかり見ているならば、
時に首を持ち上げて天を仰ぐことも必要だ。
また天ばかり仰いで求め続けているならば、
生まれてからこのかた己をずっと支えてくれている地面に額をくっつけ、泥にまみれて欲しい。
生かされているとはこのことか、
と自分の生命の尊さに気付くことができるだろう。

 やはり頭を下げる感謝は尊い。

    日切大師弘元寺 平成三十年六月廿一日

《 ひとこと》

「いくらリンゴ(仏法)の形や味を説明されても、
  一度食べて味わうことに敵うものはない。」

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