努力は裏切る。かのように見えて、実は絶妙な場面とタイミングで現在の私の心と相応してそれに見合った応報があるもので、よくよく観察しているとそれを実感することができるものです。ただ残念かな。なかなか己の事は分からないもので、何で自分はこんなにやっているのに報われないんだろうとか今の状況がつらければ辛いほどその哀絶は重なります。傍から人をみる時には冷静に見られるのに自分の苦しみとなると自分が今どうしたいのか今までの自分が何をして何を積み重ねてきたのかも分からなくなってしまいます。自分はどうなりたいのか。
《世間の知恵には限りがある》
「なにをやっても上手くいかない人ってどんな人ですか」と昨日も尋ねられました。
「感謝がない」ですが、ただ、カルマ(業)や今世の課題、それによる深層意識などを考えると一概に世間上の上手くいっている、人生成功しているという価値観が当の本人の成功(真に必要なもの)に繋がっているかどうかは分からないものです。少し例え話をもってお話してみましょう。
ある時、何事にも満足できず愚癡は多く、ついに仕事も無くして家も無く放浪している人がいた。周りの友人からはあいつは可哀相なやつだったとヒソヒソと陰声さえ聞こえてくる。腹も煮えくり、むしゃくしゃしながらも生きていかねばならぬとどうにか食いつなぎ転々とするなか、ある土地で小さな子どもに出会う。
「おじさん、疲れているね。大丈夫?」
その途端、彼は今までにない安心感に包まれた。
息苦しさは消え、今までの性格が嘘のように些細なことも笑って許せるような人間になっていく。いい仕事にも巡り合えて、少しすると幸せな家庭を持つほどになった。
これはこの人の今世の課題が、ただその子どもに出会うことであったという話です。普通の肉体の目でみると分かりませんが、その子どもは過去世において彼の仇敵であった。
彼はどうしても今世で仕返しをしたかった。
しかし一方でその仇敵は過去世において彼にひどい仕打ちをしたことを悔やみ、出家して生涯を懺悔と供養に費やし、人間界にまた生まれ変わりを果たしていた。
その結果いつものように公園でただ遊んでいたのだが無意識のうちに子どもは彼に優しい言葉を投げかけていた。
《因縁という理》
例えばこの子どもが前世で何の懺悔も無く、徳を積むことをしなかった場合には、もしかすると何らかの形で怖い事件があったかもしれない。その相手が彼によって起こされるのであるか、また別人によってなるのかどうかは分からない。「原因」と「結果」の間には様々な「縁」があって一つの結果となって現れるのであるから目には目を、歯には歯をといったような単純なものでは收まらない。
良い種を植えても(因)雨が降らなかった(縁)ので実はならなかった(結果)というように、ただどんなに努力だけしても時期やタイミングも上手く合わなければ意に沿うような形として現れないし、自然の恩恵、自身の心がけも重要。魂が何を欲しているのか、声を聴くことです。また自然界の恩恵から親先祖の恩恵、普通の目には見えない神仏の恩恵、様々な恩恵を全身全霊に受けなければ私たちは永遠の生命としての価値、輝きには目覚められません。
《懺悔と功徳積み》
さて「大丈夫?」と声をかけた子どもが前世で徳積をしたように、
慚愧と懺悔をし、お経に親しみ、供養をかさね、写経をしたり、心から真言を唱えることは非常に尊く有意義なことです。すべての迷える生命をやさしく包み込む仏さまに礼拝し、自分を磨く。これは温い太陽にふれ、畑でいうところの土地をよく耕し、肥料を与えるようなものです。大地がふかふかになると多少の悪条件(逆境・試練)となっても実の成るようになってくるものです。花を咲かせるのに不要な草(怒りやグチ)はひとつひとつ丁寧に抜きましょう。
《絶対に私たちを仏さまは見限らない》
わたしたち凡人はちょっと意にそぐわないことがあると、親や兄弟といえども仲違いをしてしまったり、そればかりか恨みあったりしてしまうことさえあります。虐待や暴力など難しいこともあるものですが、心を静めて神仏に真意を伺うとその過去世からの理由に気付けることもあります。
さて、対して仏さまは私たちがいくら無茶を言っても駄々をこねても、もう祈らないと言ってそっぽを向いても、可愛い我が子を慈しむ愛情深い親のように、片時も目を離さずにあなたのことをずっと見守ってくださいます。もしあなたが裏切っても、一度縁を結んだ仏さまは絶対に裏切りませんし、愛情と智恵の光をずっとあなたに届けています。気付かないのはあなただけ。
先日、礼拝修行をよくした方を見ていて、その方自身はスランプに陥っているのですが、傍から見るとどうしてあんなにも救いの手が差し伸べられるものだろうかと不思議に思うことがありました。
やはり仏さまの礼拝、お祈り、お写経、ご真言は裏切らないようです。さまざまな方法で救いの手は差し伸べられていますが気付けないのは仕方がないことです。親の育ててくれた愛情やお陰に子が気付けないようなものですから。やはり「気付き」とそれに伴った弛まぬ精進、お写経、これが大切なようです。