愛情の反対は何でしょうか。
楽しい、楽しくない。 好き、嫌い。 他にも対義語を挙げれば意外とおもしろいもので、
粗暴、温和。 曖昧、明瞭。 尊い、卑しい。 疑念、確信。 終える、はじめる。
この愛情の反対は何であるのかというお話は前にもしたことがあると思います。
そう、マザーテレサはこれを「無関心」と言われました。
私たちはひとつでも何か物事を考える時には必ず言葉を操っています。
ですから、例えば才色兼備の女性になろうとすれば、まずは言葉をよく知っていることが大切になりますよね。ヤバイ。スゴイ。だけじゃなく、これは何がどうして凄いとか、ひとつひとつの言葉の意味をよく吟味する習慣を持つとよいと思います。
さて先日、方丈(住職)さんが言われました。
「人は愛情に絶望すると、すべてをあきらめてしまいます」。
これは自分を大切としてくれる人がいない→自分は大切ではない、という思考になることです。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、つまり価値の無い自分は生きていても仕方ないとなるわけで、そうなると身体の抵抗力も落ちますし、病気にもなりやすく、老化も進みます。対して愛情に溢れている人というのは、お肌もつやがでて美人になりますし、病気にもなりにくくなるものです。このような話をすると、
「私は愛されていませんから、どうしたら良いでしょう」とすぐに質問があるものです。
しかし私たちのほとんどが気付いていないだけで我々は多くの愛情をもらっています。
人は何の愛情もなく大きくなれるようにはなっていません。
大自然からも沢山の愛情をもらいます。人によってはそれは愛情ではなく、恩恵であると言われるかもしれませんが、いずれにしても私たちは、不平だとか、怒りだとか、憎しみだとか、不満だとか、そういった負の感情に支配されては自らを不幸な方向へとむかわせています。
そもそも仏さまに手を合わせる人の側には、仏さまがずっと見守ってくれていますし、
もとより心、魂の内側に仏さまは宿っているものです。
つまり、かがやくものが自分の内側には初めから「ある」のです。
また神社にお祀りされる日本の神さまは、ほとんどが私たちのご先祖さまです。
お爺ちゃん、お婆ちゃんが孫が可愛くて仕方が無いように、神さまは子孫の私たちが大好きです。
神仏、ご先祖さま、大自然に感謝しましょう。
感謝とは「目を向けること」です。
絶望とは「目を背けること」です。
絶望の反対にある感謝は私たちの背を光かがやく方向へと後押ししていきます。
人は悲しいこと、つらいことばかりになると全てに目を背けたくなるものです。
でもそうなると全てが見えなくなります。そしてもっとも不幸なことは良いものにもいつの間にか目を背けてしまうようになることです。ずっと、いつどんな時でも感謝のできるものがあるのは人生を豊かにし、体を元気にし、生まれ変わり生まれ変わりの中にある自身の存在意義を真に見いだしていく方法の一つともなります。
そして よくお話することですが
やはり、愛される人になるにはまず愛せる人になることです。
「求める前に与える」は大原則でしょう。
さて、ただ理由もなくやさしい人はこの世に何人いるのでしょうか。ただ理由もなくイジワルな人はこの世に何人いるでしょうか。きっと皆、何かしらの経験や出来事があって、理由があってそうなるのだと思います。仏さまのもつ無限の愛情、無限の慈しみも理由がある。
仏さまもいきなり如来になる訳ではありません。修行があり、痛みがあり、喜びがあり、この上無い智慧がおきて、初めてそれらしい仏となるわけです。相手を思いやる習慣から始めることはもちろん重要ですが、最終的には智慧がそなわっていないと真価が発揮されません。
逆に私達の知恵のある人というのもただ物覚えがよいだけをいうのではないと思います。物事をしっかり見つめられ、それを深く理解し、そしてなによりも他人を生かすために能力を使える人であると思います。自分の為にしか頭を使えない人は愚人です。
愛情(慈しみ、思いやりの心)が備わってきたら
次は、忍耐すること、めんどうくさいと思わぬこと、
やると言ったら必ずやり遂げること。いいわけをしないこと。
あきらめずに頑張ることがやはり大切なようです。