法話

心はどこにあるのか 2 ~瞑想から探す~

 ある時、
 私のからだ・いのちは、
どのようにして「ここにあるのか」という疑問を抱き、瞑想をしたことがあります。
そうすると、
最初に「体の自然に躍動する様」を感じ、
続いて「血液の流れるのを」観じ始め、その先に指先の細胞が見えてきました。
いま思えば当たり前のことなのですが、そこに辿り着いた時に私は2つの事を発見しました。

一つは太陽をみつけました。
もう一つはマンダラ、
生かし合いの世界をみつけました。

 私のいのちを探求していったら太陽があった。よく時代劇なんかだと、
「お天道様がみてござる」なんていいますが、
太陽ははるか頭上から私たちを見ているだけじゃなかったのです。私たちの体のなか、
生命の内側からも
私たちを支え、生かしてくれていたのです。
いまこの瞬間も、私たちは生命の躍動(活動)に溢れています。その躍動の根幹の一つにあるものが太陽であった訳です。

太陽はわたしの体を躍動させている。
地球上のすべての命を生かしている。これらを瞑想することによって実感したのです。

密教では、満月をよくイメージします。
まあるい、しろく輝く満月です。
まあるい満月は私にとって、日常的に、気付けばイメージ(観想)するものなのでこころの内によく刻まれ、やどっているものです。
初めは自然と輝いていくのをイメージするのですが、ある時に大日如来によって輝かされているのだなということに気付きます。
そう、月が、太陽に照らされて、その光を映しだしている。それと同じです。
私が月、大日如来が太陽です。

 自分が心の内からまあるく輝いていくイメージトレーニングをしていくと、
それに相応した良い感覚と(のものと)同調できるようになっていきます。

 さて、心はどこにあるのかという疑問に続いて話をしているのですが、こころは無限大の可能性を秘めていると考えて進めていきたいと思います。

参考に説明しますが、仏教では一瞬一瞬、心は断続的に作用していて、私たちはそれを大まかに受け止めている。自分の都合のよいように一連の感情として受け止めていると指摘します。
そこで仏教というのは、その自分の内側に起こっている心を正しく観察しましょう、思い違いからは脱しましょうと訴えかけます。
仏教はそもそも、ただ「仏さまありがたい」で終わるような教えでは無い訳で、
誰もがみんな救われましょうよ!
という願いの中から、色んな修行方法や仏の救済のエネルギー、マントラ(真言)の功徳、
さまざまな事が説かれていきます。
そして仏教は 成仏する のがそもそもの目的ですから、
生きている間に仏になる方法を修行の中で探求していきます。
仏の救いと自分の努力は必須条件です。

 ホトケって、遠くて凄い存在という訳でなく、人々が本来なることのできる存在です。
仏から見ればみんな菩薩さんな訳ですから。

 さて、続きはまたもや来月に…。

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