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五官をひらき、未完をいきる

「五官をひらき、未完をいきる」
先日、弘元寺において「ゴカンとミカン」というテーマを手がかりに、さまざまな方々と学び、修行体験を共有する機会がありました。ゴカンとは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるという五官、五感のこと。そしてミカンとは、未だ完成していないという未完のことです。言葉遊びのように聞こえるかもしれませんが、この二つの言葉の間には、いまの時代を生きる私たちにとって、とても大切な学びの入り口があるように感じました。

今回、総合地球環境学研究所 上廣環境日本学センター:UJES、
東京大学の哲学チーム:UTCPの方々が弘元寺に集まり、滝修行、勤行、護摩、対話を通して、「生きること」「死ぬこと」「自然と人間」「五官体験」「地域医療と祈り」について考えました。学問の言葉、医療の言葉、宗教の言葉、地域の言葉は、それぞれ形が違います。しかし、深くたどれば、人間はどのように生き、どのように苦しみ、どのように支え合い、どのように最期を迎えるのかという一つの問いにつながっていきます。

印象に残っているのは、体験を終えた後の皆さんの表情でした。
滝に入る前には、寒さへの不安や、何を感じればよいのか分からないという戸惑いもありました。しかし、いざ水を受けると、「冷たい」という言葉だけでは足りないものがあります。息が一瞬止まり、身体が驚き、余計な考えが消えていく。終わった後に、「頭で考えていたことが、いったん全部なくなったようだった」「水の音がしばらく身体に残っていた」「自分の呼吸をこんなに意識したことはなかった」というような声がありました。私はその言葉を聞きながら、ああ、これが五官がひらくということであり、身体知を通した自分との対話であり、血の通った環境との対話、身体という生命活動を通した器世界対話であろうと思いました。

読経・護摩の修行体験において炎を見つめる時間にも、同じようなことがありました。火の明るさ、煙の匂い、太鼓の響き、読経の声、手を合わせる感覚。それらは、言葉で説明する前に身体の奥に届いていきます。
ある方は、護摩の炎を見ているうちに、亡くなった家族のことを思い出したと話しておられました。別の方は、炎を見ながら、自分が普段どれほど急いで生きているかに気づいたと言われました。特別な答えが出たわけではありません。しかし、心の中に少し空間が生まれ、自分自身の声や、亡き人への思いが浮かび上がってくる。自分の本当の願いが見えてくる。そのような時間であったように思います。

私たちは日々、多くの情報に触れています。画面を見て、文字を読み、知識を得て、頭では分かったような気になります。しかし、頭で分かることと、身体で受け取ることは違います。朝の空気を吸う。お香の匂いを感じる。足元の土の感触に気づく。雨の匂いに、子どもの頃の記憶がふとよみがえる。食事をいただく時、その温かさにほっとする。誰かの声を聞いて、言葉の内容より先に、その人の疲れや悲しみが伝わってくる。こうした経験は、誰の暮らしの中にもあるはずです。ただ、忙しさの中で、私たちはそれに気づかなくなっているのかもしれません。

仏教では、眼・耳・鼻・舌・身・意を 六根(ろっこん)といいます。
眼で見ること、耳で聞くこと、鼻で嗅ぐこと、舌で味わうこと、身で触れること、そして心で受け止めること。これらが濁れば、世界も濁って見えます。反対に、これらが少し清らかになれば、同じ日常の中にも、ありがたいこと、申し訳ないこと、美しいこと、支えられていることが見えてきます。

修験道、お山修行では常に「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」とお唱えします。霊山で母なる自然に抱かれ、仏の智慧と慈悲に飛び込み、己に向き合い、不動明王になります。これが日々の暮らしの中にある自分の受け取り方を整えていきます。

そして、五官が開かれる時、私たちは自分の未完に気づきます。自分はまだ分かっていなかった。自分はまだ受け止めきれていなかった。人の痛みも、自然の声も、家族の思いも、自分自身の心の癖も、見えているようで見えていなかった。その気づきは、少し恥ずかしく、時に苦しいものです。しかし、未完であることは恥ではありません。

未完であるからこそ、人は学ぶことができます。未完であるからこそ、祈ることができます。未完であるからこそ、他者の言葉に耳を傾け、自然に頭を下げることができるようになります。 お釈迦さまの説いた真理は諸行無常。私たちは常に変化の中に存在しているのです。

密教では、身口意を調えることを大切にします。身体の所作を調え、言葉を調え、心を調える。つまり、頭だけで善く生きようとするのではなく、身体と言葉と心の全体で、少しずつ自分を整えていくのです。

「ゴカンとミカン」の体験を振り返り、私はあらためて、お寺とは何をする場所なのかを考えました。
お寺は、願い、亡き人を偲び、先祖・水子を供養し、自分のいのちを見つめ、自然と向き合い、人の話を聴き、祈り、未完の自分を受け止め直す場所です。そして、もう一度、自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのかを問い直す場所。自分の内なる仏を見つける場所です。

どうか皆さまも、日々の暮らしの中で五官を少し開いてみてください。食事をいただく時、ただ食べるのではなく、誰が作り、どのような土と水と光に育てられたのかを感じてみる。家族の声を聞く時、言葉の奥にある思いを少し受け止めてみる。朝の空気、雨の匂い、手を合わせる感覚を、急がずに味わってみる。すると、私たちは未完のままでありながら、決して一人ではないことに気づくはずです。

令和八年六月二十一日

毎週日曜 朝6時「勤行・お茶」 (第二は福山霊苑)
24日(水)「弁財天 護摩」20時
28日(日)「滝修行」朝5時 お寺出発
「水子供養/地蔵護摩」10時 ※7月第一の振替え

7月
3日(水) 「毘沙門天護摩」朝6時
5日(日)「滝修行」朝6時 お寺出発 ※水子供養無し
21日(金)「大師御縁日 護摩」10時 20時
26日(日)「キュウリ封じ」10時より護摩
年に一度の秘法、キュウリ加持です。祈祷キュウリを受け取り、護摩壇へお参り
※25日晩に祈祷をしますので、申込は7月24日までにお願いします。
祈祷のみの申込も可能です。
 きゅうり封じ 申込はこちらから

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