法話

心がとにかく スーっとするんです

 深い「心の気付き」を得ていくというのは、
何ものにも変えられないような喜びがあるものです。うれしいな、たのしいな、そんなことばかりです。

 仏教って、勉強しようと思うとなんだか難しい感じがします、とそんな事をよく言われますが、
きちんと教えてくれる「師」がいればそう難しくもありません。
いずれにしても、頭で分かるレベルのことは頭で分かる程度、範囲のこと。

 「空」とはなんですか?とよく聞かれます。そんな時、「無」ってなんだと思いますか?と聞き返します。
 無い・・・うーん。説明できません。
 そうですね、説明できないですね。あえて言うならば無というのはまだ有の対極にあるものですよね。有るという認識があるから無いという認識がある。空というのは有るも無いも超えているし、含んでいる状態。ゼロと無限大が一緒になった状態でしょうか。
 余計分かりません。
 うん、まずは頭を空っぽ、無にしてみましょう。こういうのは考えて分かるようなものでは無いですからね。姿勢を整えて、鼻から息をぜーんぶ吐き出して、また鼻からお腹に息を吸い込みます。どうでしょう、数回おこなってみて下さい。・・・頭であれこれ考えちゃいませんか?

考えを止めることも、
それはそれは難しいことに気付けたら、
それはあなたにとって、とても大きな第一歩です。
なぜならそれは、「自分の心の姿をありのままに観察した」からです。
いつも私は自分の意識、感情に振り回されていることに気付きましょう。

 自分の意思で、なんでも行なっている?
ならば自分の意思で心を一瞬にして無にできるはずです。
でも出来ないのは、人は何かよく実体の分からない、自分の意識に振り回されている、そういうことのようです。この意識は肉体から来る作用、欲求に影響されています。お坊さんが精進料理を食べますよね、あれは心をコントロールする瞑想に最適な身体をつくる為です。

なので、暴飲暴食や感謝の無いままに食事をしていると、心はどんどん肉体と意識の欲に振り回されてしまいます。感謝して食事をしている人にすぐカッとなるような人はいません。
食事に対する感謝は大切なことです。

 さて、心のありのままの姿とは何でしょうか。こころの姿を探求していったら、最後には何が見えて来るのでしょうか。何が「有る」のでしょうか。それとも、なにも「無い」のでしょうか。
その、「空」というものがあるのでしょうか。答えはひみつです。知りたい方はありますか?その方法だけはお教えできます。でも残念ながら答えは教えられません。

でも、心がスーっとする事だけは必ず保証します。
涅槃(ねはん)という言葉がありますよね。修行者のみんなが目指しているところです。
涅槃ってね、スーっと心も何もかもが気持ちよくなることです。限りなくね。限りのある程度じゃあ本当の涅槃じゃあ無いですからね。

え?そんなの分かることなんて意味がない気がするって?
そうですね、そんな時は、考える機会っていうのはまた巡ってくるから、考える必要のないときは考えない。それでいいと思います。
むしろ、
考える事を完全に止めた時に、
意味を越えた意味、
(仏さまの)智恵に出会いますからね。

仏教でいう、自分はどうであるかの探求っていうのは、実は考えるってことじゃないようなんですね。
「無我」に実はいわゆる自分がありますし、うわぁー って驚くような喜びがある。
意味のあることを考える間は、意味付けの中でしか思考できない。これはいい。これは悪い。これは楽しい、これは嫌い・・・。

時々、こころが窮屈で苦しいよ、って人に出会います。そういう時に仏さまへのお祈りをお勧めします。
ほとけさまの世界には良いも悪いもありませんからね。何もかもぜーんぶ受け止めて下さいます。
そういう仏さまに親しむ。ここに大きな救いがあります。

 良いとか悪い。白とか黒。二元論の世界ではどちらかを求めても、どちらか一方が分かるだけ、分かっただけで片手落ちになる。
意味付けの無い もの 世界 を知ることが、うーん・・・本当の意味 というものに近づく。

 つまり、「考える」じゃあ、いつまで経っても分からないことがある。
考えの及ばないものを知る。仏さまってそういう凄さがある訳です。
紙面の関係上、今月はこの辺で・・・。

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