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修行者たちも皆、仏になる

ブッダは、一人では足りない。

ドイツ人の弟子が、先月から毎日一座の礼拝修行を始めました。彼はドイツの自宅で行っていますが、日々の修行日記を読ませてもらっていると、彼が非常に高く、清らかな菩提心をもって修行に臨んでいることが分かります。彼には基礎仏教を理解し、研鑚してもらった上で、五体投地の礼拝修行と真言念誦をしてもらっています。そんな彼を突き動かすものは一体何なのでしょうか。 彼の心の柱には深い慈悲があり、すべての生命が救われることを一心に願ってることが分かります。
お寺にいると、「私は無信心者です」と言っていたような人が、「いつのまにか、毎日手を合わせています」とお話されるような方がいっぱいいます。何が彼らを変えた きっかけになったのかを観ていると、自分だけではどうしようも無い事象に遭う。 大切な人があの世へ旅立たれる。 自分の罪深さに気付く。 自分の心と向き合う準備が出来たことによって。 物事の本質とは何かと思い考えるようになった。 堕落した自分の在り方を変えたい。 神仏の存在を目の当たりにする。 自分の前世からの因果の一端に気づき、目が覚めた。 すべての生命が平和であって欲しいと心から願うようになった。 など、入口も様々ですし、出来事も様々です。

ところで私は、「世界平和」という言葉よりも、「すべての生き物が平和でありますように」と祈れる方が良いように思っています。世界の平和というと、その多くが環境要因をまず見ていて、どうも一つ一つの命や、一人一人の存在に対しての心配りが遅れている、またひどい時には無いように感じる場面を目の当たりにします。平和を口にしながら単純な全体主義に陥っていることが多い。 やはり、一つ一つの存在に対して、自分の心にそなえる慈悲をていねいに、丁寧に、相手へと向けていくのが大切だと思います。 勿論、極端な個人主義に陥るのも良くないことだと付け加えておきましょう。
さて、一つ一つの生命に目を向ける、愛を向けるといっても、それが執着心からなるものであれば、あなたは迷いの世界の領域を出ることができない。執着心の自己愛、他者愛ではなく、執着を超えた愛、慈悲心を持たなければ、私も相手も深い気付きや悟りを得られない。 仏教は過去から現在、未来という三世の視点で考えます。さらに三界という 欲界(私たちの住む欲望と物質からなる現象世界)、色界(欲界にある煩悩を超越した世界) 無色界(欲望も物質的条件も超越した世界)を乗り越えた視点、境地を重んじています。 つまりこの「三界」は輪廻(りんね)、流転生死(るてんしょうじ)を繰り返す、迷いの世界として観ているのです。

弘法大師は般若心経を密教的に解釈された著作『般若心経秘鍵』において、
「三界は客舎のごとし(この輪廻する三界というのは仮宿にすぎない)。一心はこれ本居なり(仏と平等となった心こそ本来のあなたの居住であるのだよ)」と説かれました。欲望世界の中だけで正解を求めているのでは不十分なのです。
ましてや正義や、一方だけが優れている考えや思想、世界を目指すものではありません。この仮宿(かりやど)と言うべき世界で お戯言(たわむれごと)をして遊ぶだけではダメですよ、と言われています。
お寺ではよく「”わたし” という生命存在に目を向け、”相手の生命”に目を向けることからです」と言いますけれど、流転生死を繰り返す、迷いの世界の考えだけで、目を向けているのでは足りません。私たちは”真実語(真実となりえる言葉、意味)”とは何か、と考えながら生命の意味を見つめるべきでしょう。 神さま、仏さま、ご先祖さま、自然環境、私とあなた、あらゆるいのち。すべてのつながりの中で考えていくのが良いと思います。

そもそも、仏陀(Buddha=仏)とは煩悩を超越して真なる気付きを得た存在を指します。目覚めた者、覚醒した者を意味するサンスクリット語に漢字を当てた音写語です。対して菩薩(Bodhisattva)は仏となるための修行の途上にあり、完全な悟りを目指し、他者を救済し続ける存在を指します。つまり菩薩たちは、いずれ 仏になる存在です。菩薩さまたちはずっと菩薩をしているわけではなく、いつの日にか仏になりますし、初めから菩薩であったわけでもありません。ある前世においてはお釈迦さまを罵っていたというような菩薩さえいます。でもそれがいつの間にか、ブッダの説法をいつも拝聴し、修行に専念する存在になるのです。 誰しもが初めから完璧では無いのです。 間違えることもあるし、怒ったり、失敗もする。 だからこそ、成長した暁には他者に対して優しくなれる。愛(慈悲)のこころを大きくなるのです。 菩薩さまたちのように、他者を慈しみ愍れみ、自他もろともが本当に救われるために悟りを得たいと思えた時に、ただの凡夫(ぼんぷ・われわれ)が菩薩さまの道へと歩み始めるです。これを発菩提心、菩提心を発(おこ)したといいます。

先日、お寺で般若心経の解説を行いましたが、最後の「羯諦 羯諦(ギャーテイ ギャーテイ)」のgateは動詞 √gam(行く、渡る、到達する)を意味し、「往け」「渡れ」「進め」「彼岸へ到達せよ」を示しています。
もっとも弘法大師の教える般若心経はもっと深淵なのですが、( )を付けて、まずはこちらの訳を紹介しましょう。

羯諦   行き着いた(と思っても実際は到達できず)
羯諦   再び行き着いた( 〃 実際には到達できず)
波羅羯諦 (幾度も同じ試みをした挙句にようやく)彼岸に行き着いた(と思っても長くは留まれずに俗世に戻る)
波羅僧羯諦 (そしてさらに、幾度も、幾度も、同じ試みを重ねることで、遂に、)完全に彼岸に行き着いた
菩提 薩婆訶 (これがまさに、叡智の超越した境地に至る真髄である)悟りよ、幸いあれ!

この( )が現実に起こる時間体験です。この「ギャーテイ」の一節に無限とも言えるような時間を感じるのです。それでも、その無限とも言える時間を乗り越えていく、仏さまたちの力強き真言(ギャーテイ)に、また力をいただく。
とても有りがたい、般若心経の真言の一節です。

私たちは、この世に何をしに生まれて来たのでしょうか。
その答えは三界を超えた彼岸の境地にある。
と、同時にあなたの仏の心”一心”の内にあります。

令和七年三月二十一日

毎週日曜「朝のお勤め」朝6時~
4月
1日(火) 「荒神供」20時~
3日(月)「毘沙門天」朝6時~
6日(日)「水子供養/地蔵護摩」10時~ 「お花見」各自、お弁当を持参ください。
21日(月)「大師御縁日 護摩」10時、20時
24日(木)「甲子大黒天 一時千座法」23時~
30日(水)「弁才天 護摩」20時~

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