最新情報

“あわい(間)に生きている” を感じる

“あわい(間)に生きている”を感じる

先日、90歳近い男性とお話をしながら、
自分が同じ年齢、同じ立場になったならば、何を語っているだろう、何を目に映しているだろう、
とふと考えました。

「(仮名)太郎さん、人生を振り返ってどうでしたか?」
「いやぁ、いつの間にかこんな年になってねぇ。自分もいつまで生きているか分からないし、人生どうだったか分かりません。」
「それでも、ここまで色々と、他人様から見れば成功もし、自分でよくやったと思いませんか?」
「・・・わしの人生はこれで良かったのかなぁ。よくやったのでしょうか。」
「何度も生まれ変わり、前世があって、今この世に生まれきて90年。今世・この世に生まれて来て、与えられた約束事や、自分が決めた約束事。自分の使命・課題が何であったか。何のために生まれてきたのか。そろそろ何かを感じたり、・・・しませんか?」
「・・・ハハハ(笑)、分かりません(笑)。 でも、家族に感謝です。 家族はよくやってくれました。ありがとう。」

近くにいた家族は、
「おじいちゃん、そんな事を思っていたの? 初めて知ったよ!」と驚いていました。

ずっと近くにいる家族でも、意外と知らない心の内。そもそも隣にいる大切な人が、どんな人生を歩んで来たのか。じっくりと考えたり、見つめた時間が、あなたはどれだけあるのでしょうか。

また日常の会話は、自分と相手の間(あいだ)で起きています。古風にいうと「あわい」です。この言葉は他者と自分の間に起きるつながった(接続された)関係性と動き・働きが加わり、浮かび上がるものです。
対して同じ音でも「淡い」は色・味・感情などの「うすい」「ぼんやりした」「かすかな」状態であり、ちょっと意味が違います。

よくよく考えると、自分自身も幼少期と今の自分の「時間のあわい」に生きていますし、「大切な人と自分のあわい」「親先祖と自分のあわい」「天地自然とのあわい」「神仏との祈りのあわい」など多くの間に生きていることに気付きます。

つづめると、
「時間(時の間)」と
「距離(相手と自分の間)」と
「空間(空ろう間)」で分けて考えられるものです。

そしてこの三つを考える時、どこに「支点」「起点」があるのか確認してみると良い。例えば自分の歴史・人生を考える時、現在と過去のどちらが起点となっているでしょうか。先程も相手と自分と記しましたが、あなたは自分が支点(動き・変化が生まれる中心となる場所)となることが多いか、自分の外に支点が起きることが多いのか、色んな場面を思い浮かべてみてください。物事の感覚や感性の事象は自分の中から生まれたり、外から生まれたりしていて、常に自分を支点として起こるだけのものでもなく、固定されたものでもないことが分かると思います。これは般若心経の教える「空」の一つの形、一面です。 また目を開けて相手を見た時、相手との距離は、自分と相手のどちらを起点にして捉えているでしょう。次に目を閉じて同じことをした時は支点がどこに存在するでしょうか。 耳で聞いた音は、例えば夏の虫が鳴いているのを聞いた時、支点はどこに存在しているでしょうか。 鼻で嗅いだ時は外に起点が無く、ほとんどの人が自分の身体についている鼻を支点にして、香りの発生源を辿っていることでしょう。

では、自分の人生を振り返った時はどうでしょう。
今から過去を見ているのか、過去から今を味わっているのか。”今の”あなたはどちらにあるのでしょう。これさえも、また「今」だけのことであり、変化します。 であるのに私たち人間は、永遠を信じたり、ずっと一緒の気持ちを持っていたり、景色を眺めていたかったり・・・、それで安心をしたりする生き物です。ただ仏教は諸行無常であるからこその永遠を見つめています。

今月は空間までお話できませんでした。続きはまた来月に・・・

令和七年七月二十一日

関連記事