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自然一体の思考をもって生きる

「自然一体の思考をもって生きる」
みな、私たちには限りがあります。つまり、いつか死ぬということです。私たちは生まれた瞬間に、死の縁を持っています。これが仏教の基本的な教えですが、これだけで話が終わると何だか寂しいもので、自分がどのような縁の中に生きているのかを知ることが大切であり、どのような果実を結ぼうとしているのか(結果)と考えることです。すなわち今、自分がどのような種を撒いて生きているのかと問うことです。

昨日は大阪で全日本仏教青年会の全国大会があり、厳島神社の神道、金峯山の修験道、四天王寺の聖徳太子の教えをはじめ、ロボット工学の石黒浩教授、哲学者の出口康夫教授らを中心に今をどのように生きるか、共生の思考を基軸にAIや科学技術、宗教と哲学の討論会がありました。私は世界宗教者平和会議(WCRP)日本青年部会の幹事という立場から参加させていただき、会場では旧友と顔を合わせ、旧交を温めました。

科学技術は日進月歩。規制やルールを作っても、完成した頃には技術が新たな次元へ突入しており、折角の議論も総意を集めた頃には既に古いものとなってしまう現状です。初めは多くの大学や現場においてAIの規制やルールを議論していたものの、お手上げ状態にあるようです。
私は常々、道に迷ってどうしようもなくなった時の状況と重ね合わせることが肝要と思っています。つまり、「もといた場所に立ち返る思考」を持つことです。これはあらゆる場面でも同じことが言えます。若い間は体力のある限り、暗中模索にどんどん歩みを進めるのも可ですが、いつかは疲れ果てて前にも後ろにも進めなくなる。医者や周囲からは休みなさいと言われるが休み方もよく分からなくなっている。心も体も緊張しっぱなしです。力の入れ・抜き、息の吸う・吐くも上手くいかない。長年付き合ってきた自分の身体の操作方法が分かっていないことに気付きます。頭では力を抜こうと思っているのに、体が言うことを聞かない。これは体が悪いのではなく、あなたが自分の身体のことをこれまで気遣ってこなかった生き方、生活態度が悪かったのです。

「向き合う」というのは一体どういうことなのでしょう。この「いったい」も一つの体と書きます。天地は一体なり。すなわち一事物はつながりと関係性のなかで成り立っています。切り離して考えられる物事、成立する存在など無いのです。未来も過去があるからです。生きているのもあらゆる恩恵によってあります。自分の身体がいうことを聞かないのも、そのように自分の身体が成り立っている仕組み、天地自然とのつながり、親先祖、神仏を知らないからです。一体とは見えない存在も含めてあらゆる可能性を否定しない態度をもって初めて成り立ちます。「縁起」、縁によって起きる・成立するとはこういった思考です。
また自我の囚われから解き放たれることも必要でしょう。自然と一体になった時に自分はどこにいるか。主体と客体という隔たりはそこに無いはずです。「自分らしさ」に囚われ過ぎて、「縁」や「一体」が見えなくなってしまっている生き方になってはいないでしょうか。自分のもといた場所は? つまり自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。どこへ行くか、どうなりたいかを考える前に、自分はどこから来たのかを知ることの方が自己の本質に迫る問いとなります。一体全体は過去から現在、未来をつなげて思考することです。その完了の上で「いま」を観ることが、仏教の「縁の上に生きる」「自分らしく生きる」メッセージと言えます。

自分だけの好き勝手で生きることが自分らしく生きるの本質ではないのです。科学、人工知能の技術発展が著しい現代だからこそ、より自己の本質、生命の本質に立ち返る訓練を日々行わなければなりません。もとより、ゆっくりと丁寧に自然と共に生きるスローライフを送っていた時代からも、立ち返る思考、一体全体を感じること、自分がどこから来たのかと親先祖を敬うことなどはずっと続けられてきたことであって、何も新しいことでは無いのです。

一部の西洋文化の根底には支配する者とされる者の習慣、能力主義が根強くあると言います。キーワードとなるのは知性・理性の有無であり、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは奴隷とは生きている道具であり、道具は魂のない奴隷であると言い放ちます。知性のある者が無いものを使ってやらなければならないという考えです。その思考の延長からすると、道具やAIは奴隷でなければならず、人間のひとつ下の階級であるべきという未来を想像しがちです。
日本では、鉄腕アトムもドラえもんも奴隷ではなく友達です。道具にも名前を付けるし、壊れたら人間のように丁重に弔います。針供養、草木塔(草木を供養する塔)、付喪神(つくもがみ)は百年使った道具に霊魂が宿り妖怪となります。彼らはもとよりそれぞれの役目を持つものの、存在としては対等であり、生命の躍動を持っています。
山の中に草木があるのではなく、草木や風が山を作っている。
自分の存在はどのようなものなのか、自然一体のなかで振り返る修行体験を繰り返し行う時代が到来しているように思います。

令和七年五月二十一日

毎週日曜 朝6時~「朝のお勤め」
22日「結縁潅頂(胎蔵界)」13時30分~、15時~、17時~
24日(土)「弁才天 護摩」10時~
乙巳年 辛巳月 癸巳日 三巳弁才天
6月1日(日)「滝修行」朝5時出発 6時現地
「水子供養/地蔵護摩」10時~
「お寺でACP」11時30分~ 医師らが参加します
3日(火)「毘沙門天」朝6時
7日(土)「放生会」10時~ 生き物を大切に
15日「仁王経法要」伊勢善光寺
21日(夏至)「大師御縁日 護摩」 10時、20時
23日(月)「大黒天 浴餅供・一時千座法」23時

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