お歳暮、お中元、お礼参り、針供養、お盆参り、七五三、人形供養、神社のお祭り、除夜釜、年賀状、、。
近年は終活にともない年賀状じまい(納め)が増加する傾向にありますが、先に挙げた「お礼参り」や「お盆参り」は、大方の人が一度や二度に限らず経験をしている、否、実践していることと思います。
私が実践(自ら進んで行うこと)であると言い換えるのは、これらがどれもお世話になった人や物に対して行うものであるからで、ギブアンドテイクのような、自分が相手に利益を与えて相手からまた貰おうといったものでは無い。本来、真心を込めて行うものであり、差し上げたものが自分の手から清々しく離れいくようなものにして、例えば親の子らの門出、旅立つ青年の輝く未来を見送るようなものです。
さて、表題の「恩を送る」とは聞き慣れない言葉だと感じた方があるかもしれません。また「親の子らの門出」も「親が子供たちの門出を見送るようなものです」と言い換えないと、誰が(主語)門出(目的語)を見送る(動詞)のか、前後の文脈が無ければ理解するのが難しいと感じる人もあります。文中のそれぞれの役割(格)を教えてくれるのが「が、を、に、で、の、へ」といった格助詞で、
誰(何)が主語であり、目的がどこにあって、どこ(何)に向かっているのか方向を教えてくれるなどする、まことに不思議な一音です。このたった一音で言葉の意味は変わってしまうのに、普段の私たちと来たら、
「はい、(これ)(どうぞ/ください)。」とか、
「お茶、(ちょうだい)。」とか、
「あなた、(気を付けて/やめて/これやって)」と、
ただの呼びかけ(感動詞)や名詞だけで会話を成立させていて、いや何とも長年の連れ添いが成す業(わざ)でありましょう。
私たちの存在、生命とは時間です。
こういった時間をかけなければ成立しないもの(言葉、事象、相手)に対して、私たちは殊に自分の生命を観るかのような思いに駆られるようです。すべての事象はあらゆる周囲環境があってのものですから、目の前の事はすべて借りてきたもの。借りて出来たもの。そう思うと何とも感慨深く、私なぞは悠久の時を観じるものです。
「借りて、助けてもらって」という語を更に「仮て」という漢字に変換すると、もう少し真理を貫く仏法的になる。この世界の事物はすべて諸々の原因から生じた仮の存在であること「仮有(けう)」。滅多にない、不思議なことをいう希有(稀有)も経典に出てくる言葉です。
サンスクリット語(Sanskrit 完成された言語の意。梵語)では adbhuta(アドブタ)に対応する語であり、驚くべきこと、珍しいことを指すもので、仏道修行において体験される得難い経験、驚異的な現象を表現する言葉です。 まさに「いま生きていること」が稀有の、それなのです。
仏法、仏典(経典)は読む毎に気付きを与えてくれます。例えば尊敬する人が言われた言葉、その時は分からなくても、時が経つと段々と意味が分かってくるようなものです。「仮有」にして「稀有」なるもの。それが何であるのか。 私たちが祈るようにして霊性を高めなければ分からないものです。
もう少し仏教的に言えば上や下などの差別を越えて霊性を浄める、磨くと言うと良いでしょうし、本より有るものに気付き、目覚める、と言っても良いでしょう。 私たちの日常に「苦」が沢山あったとしても、眠りから覚めるように、気付き、目覚め、悟るようなことがあれば、悪夢は終わりを告げます。 ただし、暖かい布団から出なければなりません。これを出来ずにいるのが凡夫です。
これは警告です。布団から出る勇気を持ちましょう。
布団を出て、家を出ただけでも世界は広い。浄土(清浄国土)はもっと広大です。
問題はいつも自己完結した時に起きています。自分だけで考えている時に、「我」が壁を作り、殻を作り、世界を遮断し、「我」によって孤独となり、苦しみが生まれています。布団を出て、シャワーを浴びて、歯を磨いて、服を着て、玄関を開けて、大自然の中に行ってみましょう。そこで観じる、自分だけ、というのは、普段感じる孤独とは違います。あらゆる存在と共にありながら成立する本来の私。孤高にして稀有なる孤独です。
ここまで辿り着いて、ようやく私たちは「恩」の深さに気付きます。
仮初めの耳や頭(知識)、肌感覚を超えて、ただ言葉を聞いたり、解釈したり、一時の快・不快では無く、本質的なもの(真如、真理、法)を体得して、「恩を送る」意味が分かるようになります。
現代では「恩を送る」というと、戴いた恩を違う他者に送ることとして限定的な意味で使われがちですが、もとは「恩を返す、恩に報いる」という語です。ただし、「恩を返す(恩返し)」には、恩を返す私がいて、返される相手がいます。近いようで遠い、分離された二元論、有為の世界のやりとりです。本来の「恩を送る」とはもっと深いところのものであり、生死も越え、主体・主語たちが般若心経の空となり、恩という縁起の真理のままにあり、この世のあらゆる存在もままに認められ、あらゆる真実(法)は大日如来の慈悲の心に因って運ばれているようなもの(如し)と識るもので、更にそこへあなたの仏心が添えられること…
さぁ、あなたの恩送り、何から始めても良いです。
でも折角の年末年始です。日頃お世話になっている神仏、ご先祖へお礼参り、新年のご挨拶の「恩送り」のなかに生きて、目出度き新年を迎えてはいかがでしょうか。
福山市の初日の出は7:16頃です。いつも心に太陽を。
令和六年十二月二十一日
25日(水)「甲子大黒天 一時千座法」23時~
大晦日「水行 (一年の禊ぎ祓い) 」23時~
元旦「神祇法楽」0時
「初詣特別祈祷」9時半~15時(30分毎)
5日(日)「箕島新八十八ヶ所」朝8時~
21日(日)「大師御縁日 護摩」10時、20時
2月2日「節分祭」20時 星供申込はお早めに!
※「厄除け早見表」をご確認の上、新年の厄除け、特別祈祷はお寺まで申込ください。
https://kougenji.or.jp/wp-content/uploads/2024/12/2025yakuyoke_hayami.pdf