「子は親になるということ (大悲胎蔵生マンダラ)」
母親に抱かれて眠る、2歳の子供を眺めた時のことです。3年前は、この子も母親のお腹の中に懐かれていたこと。何気なしに思い出しました。それは極当然なことであるのに、私は何故か、これがとても不思議なことのように思えたのです。
私たちが、当たり前のように思っている姿、景色。実は皆、そうでは無い。当たり前では無く。実相で無いとふと気付く。現代では生まれた瞬間を0才とする満年齢で数えるのが主流ですが、お腹の中にいた時から生きている命を数える「数え年」もあります。あなたが、そのどちらを使うか。それによってあなたの生命に対する意識も大きく変化するのではないだろうか。私たちは、常に世間と、自分の決めた価値観と、その定規を使って世界を見ている。
仏教ではそれを呪縛的なものと見放して、物事の真の見方、本質を見極める教えの門と、その道を示している。
また仏教、密教では永遠の命の視点で私たちの本質的な存在(生命)の相を観察する。その入り口として、前世や来世をありき(想定して)で自己の生命の流れを観る。そういった宇宙一切の現象に対して「縁起の法則」と「空の理論」をもってすべてをつなぎ合わせ、統一的な立場から世界を掴もうとする。しかも心の揺るがない深い禅定瞑想の中でだ。仏道が物凄い修行の条件を掲げているのだということが分かるのでは無いだろうか。
命の等身大を計る手始めに、数え年で自分や他者を観察してみたい。さすれば自他における本当の姿に近い、生命の等身大に迫れるのではないか。
お寺の相談、病院ボランティアの現場では、何歳になっても、幼少期の体験、父、母との関係をいつまでも語られ、誇り、哀愁し、悔やみ、愛執あり、合点せず…と。思いの表現は数多あるもの。その方の生命の相を知る手始めとして、当人と親子の関係を始め、お腹に懐かれていた時の様相も念う(おもう)ほどになること。そうでなくては深く大切なことは分からぬものと、そう私は思っています。
さぁ、あなたの大切な人のことを思い浮かべて。自分と相手の関係性だけで、その人のことを見ないでくださいね。生命は無量のつながりの中で成立している。愛するなんて事は、相手の生命そのものになる程の事なのではなかろうかと。私は思います。慈悲だの、愛だの、好きだのと相談を受ける度に思います。ただしその現実は、それってどういう事ですか?と一蹴される。嫌なものは嫌。許せないものは許せん、とこの調子だ。皆、穏やかに。安心しきって。身を任せ。母胎に懐かれていた時がある。
外に生まれて0才になると忘れてしまうのだろうか。まず1才の意識の延長で、心を穏やかに、暮らして欲しいものです。 南無三。南無佛。
さて去年の十一月から真言宗の僧侶となるための修行、「四度加行(しどけぎょう)」に入っている照見さん。五体投地の礼拝行を5週間、十八道を4週間。金剛界を6週間。先日から胎蔵界の修行に入っています。
この照見という文字を見てパッと気付くのは写経をよくよくされている方ではないでしょうか。
そう。観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空。観音さまが深い(如来さまの)般若の智恵を得る修行をなされていた時に、五蘊は皆、空であると理解されました、と。
照見とは、物事の本質や実相を正しく明らかに見極めること、了解すること。
五蘊とは、①色(物質)、②受(色を経た印象や感覚)、③想(受によって起きる脳の表象作用、想像)、④行(想を経ての心の判断行為、意志されること)、⑤識(最終的に、過去の経験値から導きだされる思考)の五つ。
空とは、すべてはいつも同じ状態ではなく、固有の働きでもない。あらゆる条件が無量にあって、そうなっている、などの意である。
修行の進捗は、
今、仏を信じ切り、自分が仏に成れるのだ(即身成佛)と修行の中でやっと見いだせ始めたところのようです。
多くの修行者が信じ切ることの難しさに直面します。
胎蔵マンダラというのは、あたかも母親の胎内に入り生まれて母親の子として人生を全うすること。それなのです。
親仏ならば子も仏。
マンダラの中の生命です。
令和六年三月二十一日
4月のお祈り
3日(水)「毘沙門天」6時~
7日(日)「水子供養」10時~
21日(日)「大師御縁日 護摩」
10時~、20時~
29日(月)「大黒天 一時千座法」23時~
※(月) 旧3月21日 弘法大師 御影供
今年の「石鎚山修行」は5月2526日(土日)です。
詳細はこちらから確認ください。
https://forms.gle/dLNDzxaPjmJk6sGG7