さて修行は何年ぐらいで終わるのでしょうか。
つい1週間前に阿闍梨となる儀式「伝法潅頂」を受けた栄瑞さんは14年の歳月がかかりました。他の阿闍梨も5年から9年かけて修行しています。
アメリカ人の賢明さんも台湾修行から計算すれば14年です。
これを聞いて、あなたはこの時間が遅いか早いかどう思われたでしょう。
たとえば仏教の常識で考えた時に、私たちの生きている今日ある日、今この瞬間はどのような意味を持つのでしょうか。お経の初めに、
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し。
我れ今、(その法を)見聞し受持することを得たり。
とお唱えしますが、
皆さま本当にこのようなことを思い、自分が感じていると言えるでしょうか。
つまり「今の自分の肉体を越えた 永遠の生命」の時間が、過去世において積んだ業(カルマ)によって囚われ、また大切なこと(真理)に気付けず、暗闇(無明)のなかにいることで亦さらに光の道に気付けずに通り過ぎてしまっている。
ざっと言えば「1劫」は地球や太陽系の年齢ぐらいです。それが百千万という消滅の時間の中で・・・と言っているのです。あなたは自分の生命の価値、本質をこのような時間の大きさの中で感じ、また思惟したことがあるでしょうか。
またそれほどに悟り(無上正等覚)を得ること、その教えに遇うことは稀なことなのだよ、と教えています。そして顕教の常識的な考えでは悟りを得るのに3劫の間、修行しないと佛と成ること(成佛)ができないと断言しています。
なんと永い時間でしょうか。そしてその内、私たちはどれぐらいの時間を知性と感性を具えた生物、人間として過ごしていることでしょうか。
果てしない時間の中で私たちが生きていることは間違いなく、少なくとも私の生命が地球46億才の約三倍、宇宙137億年の時間のつながりの中で存在していることは変えようのない事実です。このようにして研究では時間の大きさを頭で理解しようとするわけですが、修行では静かに座り、呼吸を深めて空間と一致し、時間の流れ全てそのものを体得していきます。密教、修験道の修行では時間も空間も、頭で知るものではなく、肉体をもって体得するものなのです。
しかしながら重要なのは応用の前の基礎鍛錬。まず仏教はあらゆるものから離れることによって真理の核心を得ていきます。この執着を手放し、偏見を離れた「無我」の境地。般若の智慧をそなえ、断見、常見を越えた空の体得。これらを順に修行していかなければ本当の密教の世界には入れません。
また大日如来(遍照金剛)という佛とその弟子である金剛薩埵が深い境地で教え(法)をそのままに受け渡したように、勝れた師と弟子が菩提心をおこさなければ、その深遠な道を実践することも難しいのです。あらゆるものの「普遍なる尊さ」に気付き、あらゆるものに合掌礼拝できない者はこの道に入れません。
自分のことばかり考えていることは、つまり自分に囚われているということであり、あなたは今生の自分の肉体時間の中だけでしか生きていない。そうなれば、あなたの意識時間はとても小さく、あなたの生命の本質的な広さを知らないで今を生きているということになります。私たちの目的はただ「真に(実の如く)自分を知ること」です。
自分の心の鏡を磨き浄める。その鏡を世界の高くに持ち上げて、広く広くして、世界のすべてを映し出していかなければなりません。如来の智慧を得る修行はこういった世界です。
そうやっていると、自分の業というものが段々と見えてきます。ただ多くの人にとって、これはとても直視できるようなものではありません。自分の業というのは認めたくない、向き合いたくない、恥ずかしい、辛い、苦しい、悩ましい…こういった姿形をしています。
だからこそ正しく師を持ち、修行の心得「戒」を授かって、悟りを目指す菩提心をおこし、星の数ほどの佛さまの助けをお借りし、修行しなければ、自分自身は見えてこないのです。故にその実践者である菩薩さまや修行者は尊く、また全ての生命が救われ、各々が自分の内にさとりを得るその時まで修行を終えることが無いから…ありがたいのです。
令和六年一月二十一日
28日(日)「柴燈護摩」赤磐市 普門院 10時~
2月 1~3日「星祭り祈祷」朝5時~
3日(土) 「節分祭」20時 星供申込はお早めに!
4日(日)「水子供養」10時~
12日(月)「三宝荒神供」20時~
21日(日)「大師御縁日 護摩」10時、20時
25日(日)「柴燈護摩」府中市 十輪院 10時~