法話

布施について②

先月は「無財の七施」「随喜」についてお話をしました。
今月も布施のお話です。

 「施しのできる者、その道を厳かにして迷わず」といいます。
菩薩たちは他の生命を尊び、そして敬い、憐愍して相手のために施します。そこには心に喜びがあります。利他の心がある故に。
一方でケチな者の心には怒りがあります。自分の事ばかり考える思考の癖があり、自我と強欲と執着に振り回されている故に。
自分が不幸だとか、あいつが悪いとよく思う人こそ、布施の修行が大事です。

 上質な布施のできる者は、来世においても豊かで良い境遇に生まれると言います。すなわち今日の続きが明日であるように、今世の続きを来世に行うのです。
即ちあなたは精神的にも智恵にも恵まれます。判断に迷いなく、心に平穏あり、また更に他者へ布施を行うでしょう。衆生のお役に立つ人生を歩み、周囲を明るく照らし、己の性質・本性をより磨くことができます。
斯くして布施のできる者は自他共に不安なく、喜びがあり、智恵があり、魅力的な存在へと成長していくのです。正しく布施をして、悪循環では無く、善の循環に身を置くことです。

 佛教では「三施」と呼んで「財施(資生施)、法施、無畏施」の三種を説きます。修行者はすべてを実践し、修行者ではない在家者は財施のみを行うことになります。

・財施はお金、自分の持っている物、衣服、食べ物、家、土地をお寺や他者に施すこと。 〈布施〉

・法施は説法して相手に悟りを開かせること。また自らが深く観察をして、佛の教えを堅く持ち、生きとし生けるものの為に供養し、与えられるものとなり、結果すべてのものが無量の福を得ること。 〈精進・禅定・智慧〉

・無畏施は死の怖れ、目の前の恐怖を取り除くこと。また相手を恐れさせたり、害することをしないこと。〈持戒・忍辱〉

三施は〈 〉でも記した通り、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)をそれぞれに実践することとなります。これが「布施は菩薩の初行」と呼ばれる所以です。

 次に、行う布施を規模の大小ではなく、積むことのできる功徳(発生する功徳)の大小優劣によって「上品施、中品施、下品施」と呼び分けをします。

 その他、飢えた人に飲食を施すことを「飲食施」、貧窮し苦しむ人に財を分け与えることを「珍宝施(財施)」、自らの身肉を分けて飢餓の衆生を救うことを「身施」、全身を施与(喜捨)して寿命に従って施しきることを「命施」といいます。
上の二つを合わせた「身命施」を上品施といい、心に執着すること無く、浄らかで光明のような布施となることが求められます。
中品施は身をもって行う布施、また貧苦の者・その心にも触れて財や飲食を施せることをいいます。
下品施は飢えた人を見てただ飲食や財を施すことをいいます。

 ところで布施と供養の違いを考えたことはありますか?
布施はサンスクリット語でdāna(ダーナ)、相手の利益となるように与え施すこと。
供養はpūjā(プージャー)、諸佛(菩薩、諸天善神)へお香、灯明、花、飲食などの供物を捧げることです。つまり施すか捧げるかの違いです。
ここでいう供養の対象者は困窮していませんし、むしろ迷いの中にある私よりも悟りに近い方になります。しかし現代日本で供養と言えば「先祖供養や水子供養」であり、いま申し上げた仏さまへの捧げものというより死者の状態をより良くし、死後の世界を救うものであり、「お坊さんにお経を唱えてもらい供養する」という意味で理解されている方が多いでしょう。
ここで是非ともお伝えしたいポイントが一つあります。
供養は仏さまがいらっしゃるからできるということです。死者の供養も仏さまがいらっしゃるから成立します。お経や説法も仏さまがいらっしゃるから説かれました。そして仏さまに捧げるから、積んだ功徳が仏さまの世界のように広大と成るのです。そして広大となった功徳を「廻向する」からこそ、修行者を始めとし、私も先祖も、死者も救われていくのです。

 世間では、体が太ることを気にする人は多いのに、欲に太ることを気にする人はほとんどいない。この欲太りが自分を強欲、怒りっぽさ、傲慢にさせているのに、それを気にしないのは残念なことです。
布施は欲を浄め、供養は自他を救います。
周囲を照らす心をはぐくみ、善なる道を進みましょう。

 来月に続きます。

令和五年四月二十一日

《ご修行案内》
3日(水)「毘沙門天」朝5時
5日(金)「大黒天 一時千座法」23時
7日(日)「滝修行」朝5時半お寺出発
     「水子供養・護摩」10時~
21日(日)「大師御縁日 護摩」10時~、20時~

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