自分で「決められる」こと(状態)は自由であり、
一方で「決めてしまった」状態は不自由です。
お肉にしますか?お魚にしますか?とよく飛行機で選択権を与えられます。選ぶことができるのは自由で、私は自由を得ている。普通にはそう思えます。
そしてお肉をくださいと答えて、手元に料理が届く。だが一口食べてナイフを置き、隣をふと見たら、やっぱり魚が良かったなと心が動揺する。そう思った瞬間、心の片隅に後悔の念が湧き起こる。似たような経験がないでしょうか。
一貫して無類の肉好き、魚が食べられない、こういった方にとっては、自分には本より「迷いがない」と、このように己を評価されるかもしれません。そりゃそうですね。もう他に選択しは無く、決めているのですから。迷う必要がありませんもの。
では、この人には迷いが無いのだから佛さまのように悟りを得られたお方、ブッダ(目覚めた方)とお呼びできるでしょうか?違いますよね。
料理(好き、嫌い)を選ぶことに迷いが無いだけで、日常生活では沢山の迷いや自分は何をしたらよいのだろうか、この選択が間違ってはいなかったか、と未来を不安に思ったり、過去の過ぎ去ったことに対してあれやこれやと揺れ動いていることでしょう。あなたはどうでしょう。
他人から与えられた選択権と、初めから自分で問題を用意して課題を明らかにし決めること。この二つには大きな違いがあります。
究極を言えば前者の与えられた選択権は初めから不自由なのです。究極を言えば自己の本質を掘り下げて、己の本源に辿り着くこと、そうした本源より…の状態が「本初よりの自由」と言うのです。
自分でコントロールできる自由という状態をイメージでお伝えすれば、
中心に「本初、本源」というのがあって、更にそこから広がっていく世界を(コントロールできるよう)思い描く。そんな状態です。
ここで(コントロールできる)と( )しているのは、実際には一度動き出すとすぐに様々な「縁」によって結果が成り立っていきますから、実には完全にコントロールすることなど出来はしない故。
経典の言葉を借りれば「諸法従縁生(しょほうじゅうえんしょう)」、もろもろの法(道理、存在)は様々な条件・関係の縁から生まれている。
つまり世界の全てを自分の思い通りにするなどはこの世の仕組み上、出来ません。了見の狭い考えによって、己の主張や欲望を私の主体者にして(欲望と愚かさに自分が支配されている状態に)いる限り、悩みや苦しみは尽きることが無いのです。 「一切皆苦(いっさいかいく)」を仏教が真理とするのは、この「苦」を感情的な苦というより、この世の仕組みを考えれば、すべてを思い通りにはできない、起きる現象を完全に決めることなどできはしない。そういった物事の道理を言っているのです。「一切法は縁に因り生まれる」と様々なお経典で説明されています。
また一切法の因縁は諸法を生ずると悟ることができれば非常に大事な真理に到ります。
今月のお話で言えば中心の本初・本源のことなのですが、仏教語そのままにお伝えすると「一切法本不生(いっさいほうほんぷしょう)」と言います。言葉だけ知っておいていただければと思います。
簡単にいえば大日如来という佛さまの境地そのものです。ここに無尽(尽きることの無い)の真理があって、ここに到れば遮るものがありません。仏教語でいう「無礙(むげ)」、差し障るものなく、自由です。
人は己を過小評価し、自分の小さな世界を作り、己を孤独にしがちです。
無いものを他者に求め、欲求であったり、奪ったり、渇きを潤そうと必死です。
でもその渇いた砂漠を作っているのは紛れも無い私自身なのです。
他人に求めずとも、自己の大地を掘り下げれば無尽の泉は湧いてくるのです。
大地は宝。
「私の大地に求めよう」。
そのように「決める」ことが唯一、真の自由(佛教の悟り)をもたらすのです。
ただお間違い無きように。孤独を求めるとは少し違います。すべてのものは様々な縁(法界/ほうかい)と共に生きています。法と共に生きるとは、すべてと共にあり、且つ己の大地に無尽の光を見いだすことにあります。
佛教でいう平等、清浄とはこのような景色です。
自分に対しても、他者にも、
小石一つ、木の葉の音、塵埃をも平等にして過小評価をしないことです。
令和四年十一月二十一日
《12月 ご修行案内》
4日(日)「水子供養・地蔵護摩」 10時
18日(日)「佛名会」10時~
過去現在未来の佛さまの名を読みながら五体投地、三百礼拝をします。
「しめ縄つくり」13時~ 参加費:三千円
事前にお申し込みください
21日(金)「お大師さま御縁日。お護摩。」
①10時~ ②20時~
写経奉納。祈願護摩木。先祖供養塔婆。
31日(大晦日) 「水行」 23時15分~
正月元日 「鳴釜神事(鳴動護摩)」0時
「初参り祈祷」 9時30分~15時まで
※30分毎に心経太鼓・金幣加持の祈祷をします。
ご家族、友人と募りお詣り下さい。