法話

心の大地に触れる、佛道修行のありかた

 NHKのチコちゃんに叱られるの決めゼリフ、
「ボーッと生きてんじゃねーよ」。

私たちは何となく社会のこと、生きることを知ったようにして生きていますが、多くはその単語(言葉)を知っているだけで、中身を知らないものです。
私もそうです。多くの仏教用語を知っているつもりですが、実際にその働きがどのようなものであるのか、他のどのような縁と結びついて結果となっているのか、、。
例えば、あなたがあなたと成るには親がいて、先祖がいて、友人がいて、すべての食事が肉体となっていて、あらゆる経験と、その思考が今のあなたをあなたにしている。多くの人はこのような事も本当の意味ではよく理解していない。

 広い大地があって、鳥が来て、ポツンと種を落として、雨が降り、太陽が照り、芽が出て、枝が伸び、幹には虫が休み、葉は生い茂り、人が木陰に休み、大地に木漏れ日が少し落ちる。
 あなたは大地。そしてたくさんの樹木があなたの出会いと経験と思考であり、その樹木によって時にあなたは他の生き物を癒やし、時に他者の住まいともさせるでしょう。 またあなたがあなただけの楽園を作ろうと思えば、あなたは他の生き物を寄せ付けないように棘のある木を沢山つくるか、臭い匂いでも放つのだ。そうすれば小さな木漏れ日とそよ風だけがあなたの至福となる・・・。

 正直、いろんな生き方があって良いと思う。色んな木があり、森があって良いし、だからこそこの世には多種多様の生き物がある。あなたがどのように存在しようとも、この世にいる限り何かしらの他の縁と結びついてでしか存在できない。本当の意味での「孤独」なんてことは有り得ない。

 たとえば発酵の極地点にある「柿渋」はあらゆる菌も逃げ出す強さらしく、なんと世界を悩ますコロナウィルスをも無害化させるほどだ。そして匂いも強烈で、熟成品に薫りは付きものである。ただ臭いと敬遠するなかれと口に入れれば味がある鮒寿司、くさや、納豆・・・。彼らのことを評して「くさいは偉い!」と巷では言うらしい。話は脱線気味だが、あらゆる菌も逃げ出す程の柿渋でさえも人間にかかれば有用品となるのだ。腐った物も発酵食品と呼んで愛用する。

人間腐ってはいけないというが、食品視点で言えば腐敗と発酵の違いなんていうものは人間が勝手に決めることで、どちらも微生物の力によってその物質が変化するものである。ただそれが人間にとって有用か、有害か。それだけである。 大事なことは、だれかの役に立つような腐り方、熟成方法を選んで生きることだ。そうすれば腐敗ではなく、あなたは熟成者と呼ばれるだろう。

 閑話休題。すべての縁を絶ちきるなど真の修行者にしか本来完成させられない。仏教ではそれを阿羅漢果(あらかんか)という。厳しくとても永い時間の修行が必要だ。ただ私たちは眼耳鼻舌身の五根と感情意識を持つ人間である上は、五感、六識が満たされる、その感覚をいつも欲求していて、それ無しにはなかなか生きられない。
欲求を生きがいにするのが凡夫である。
仏の誓願に生きるのが修行者である。

凡夫よ、自分の作った木や森に自分が惑わされ、苦しめられていることが多々生じてはいやしないか。その問題も愛着ある自身が作ったものだからと二重構造の問題のように、どちらにも歩みを進めなくなってはいやしないか。わずかな木漏れ日だけがあなたの癒やし救いだと信じ込んではいやしないか。 大地にふれる。これは喜びに他ならない。あなたの生命のふるさと であるからだ。だが木々が生え、大地が見えなくなり、十数年の時が経つと忘れてしまうのだ。本(もと)のあなたの在りようを・・・だ。

 そういった本の在りようを仏さまというのはそのままに現しており、さらに誓願に因って立つ、不退転の修行によって話題に即せば発酵の極地も体現され、あらゆる手段で生命を癒やそうと努められている。この仏たちがその境地に辿り着くため、まず何をしたのかというと、すべての木を根っこから取り除いた。そしてありのままの大地にふれた。

 五体投地の礼拝修行はこのようなものだ。写経もそうだ。目的をこのように持てば、真言念誦も、念仏三昧もそうだ。靜かな呼吸を保つ禅定は木の根っこがどこまで伸びているかを気付かせてくれる。地中深くまで見えてくる。礼拝と禅定をまず勧める。修験の山修行も良い。

 そして一時的に自分だけを満たす種は拒否し、如来さま由縁の種や雨、太陽をそのままに浴びることだけを修行とする。出家仏門に入るとはこういったようなことだ。己の木で生命を癒やすのではない。如来さま由縁のものであることが、分かりにくいかもしれないが大切なのだ。

 帰依仏、帰依法、帰依僧の、三宝に「帰依」することで少しずつ分かってくる。人間は仰ぎ尊ばないことにはその本質などが見えてこない仕組みになっている。
これこそ、「やってみないと分からない」の帰着点。人間が「我」に固執、優先する生き物である以上、我々はまず最初に自我を超えるものに対して、仰ぎ尊ぶ以外に道は無い。

 苦悩は自分の尖った枝葉に触り続けているようなもの。如来の大地を仰ぎ、あなたの本来持つ大地に触れた時、ある時から失った永遠の安心感を思い出すのである。

            令和四年五月二十一日

《6月 ご修行案内》
3日(金)「毘沙門天」朝5時
4日(土)「三宝荒神供」20時
5日(日)「滝修行」 5時30分お寺出発
 「水子供養・地蔵護摩」 10時
 「放生会」13時 海の生き物「貝、エビ、魚」などを大切にお持ちください。授戒し、経を聞かせて海に放します。

21日(火)「お大師さま御縁日。お護摩。」
  ①10時 ②20時 どちらかにお詣りください
 写経奉納。祈願護摩木。先祖供養塔婆。

7月17日(日)「石鎚山入峯修行」 申込は別紙に
7月23日(土)「瓜封じ(胡瓜加持)」

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