「強さと何か」
藤井聡太二冠の封じ手がニュースを沸かせていた。九州豪雨の被災地支援のためオークションに出され、前例に無い高値で落札されたそうだ。それにしても棋聖戦における平凡と思われた受けの銀、これが実は28手先まで読んで初めて最善手だと判明するものだったことは世間に衝撃を与えた。
私の母方の高祖父は西日本でも一番になるような棋士であったようで、そのような才能は私に遺伝しなかったものの将棋のニュースがあると気になるものだ。
藤井二冠は、
「平凡だと切り捨てる一手にも実は可能性があるのではないかと最近思うのだ」と話していた。
強さとは何だろうか。喧嘩をするのに筋力が強いことか、強い武器を持っていることか、権力を持っていることか。はたまた強者に抗う勇気を持っていることだろうか。単純には将棋のように勝者となることだが、これらはいずれも相手がいて、その対象者よりルールの上で勝って初めて強者となることができるもの。お釈迦様は、一番の強敵は自分自身なのだと言われたが、誰かと比べずに自分の強さというものを計ってみたい。
人間は嫌なことがあるとやめてしまうし、気に入らないことがあると自分の心を抑えられない。
欲望は一見抑えているようで消え失せはせず、奥底で静かにくすぶっている。私たちは欲望の奴隷、操り人形なのだろうか。人間はいつ自分自身というものを本当に理解し、自由を得るのだろうか。
他者と比較することもない自分の内側の世界において自分に打ち勝っていく術を、せめて折れない心、精進の力を得たいものだ。
私自身のことを振り返ると中学三年生まではずっと器械体操に向き合った。県大会、種目別で最高二位ほどの成績であったが、高校生迄のトップレベルが参加する全日本ジュニアへ記念出場だが参加できたのは良い経験となった。
高校からはフェンシングに転向。良い指導者に恵まれ一年生から県大会で優勝し、三年間インターハイの切符を手にして京都・香川・岩手の大会に出場できた。記憶に残るのは、
「とにかく二流の選手になるな。一流の選手が行うような練習をやれ」とビシバシと…教えられた言葉である。同じ時間を使うのに二流の練習をしてどうするのかと。
また(他人と比べ)せめて3倍は練習すること。2倍くらいなら誰でもできる。また対比する相手が一流とは限らない。たとえ能力が、センスが無くてもそれくらい取り組めば、何か、どこかで報われるものがあるだろう、と。
そんなことを思い返していくと、人生の内で質高く自分と向き合った時間の三本の指には滝修行が上げられる。これは自分の死ぬまでの人生を集約し、修行に打ち込んだ時間である。
とにかく私が思う「強さ」とは弱い自分に打ち勝てる力があるかどうか。それを得て初めて相手の世界を自分の土俵で扱うのである。偏見も、拒絶も、無理解もない世界で相手を見ること。
私が考える人類が最も克服すべき弱さというのは、
対面する相手(物事)を受け入れられないという事象である。
強さとは見つめる力。
藤井聡太二冠の碁盤に向き合う、言葉にならぬ姿、これを見習いたいと思う。
令和二年九月二十一日
「宥善和尚の人生を振り返って⑧」
昭和17年10月、和尚は軍服を脱いで現:当陽市にある玉泉寺へ、僧衣を着て入った。
その寺の僧侶が言うには、
「昔この寺にも空海は訪れている。よく来てくれた。さぁ拝んでください」
と言って、大きな本堂の中心にある立派な祭壇に座らされた。
後ろには百人規模の現地のお坊さんが集まる中、和尚は般若心経や真言を唱えた。
漢字の読みが違うので般若心経は全く声が合わない。
ただ最後のギャーテイ、ギャーテイは一緒なんだなぁ。不思議だなと感慨深く拝んだそうだ。
これで信用を得た部隊。お寺からは沢山の食べ物を頂いたり、親切にしてもらったそうだ。
日本を離れた土地でお大師様、空海を現地のお坊さんたちが知っていること。
なんだか嬉しく、また誇らしく思えた。
兵隊であるが僧侶であった和尚の仕事は他にもあった。
死者が出ると供養をすること。また死者の遺骨を内地に送る判断。
これはつまり、火葬など出来ないような戦線においても、それでも遺族に遺骨を送ってやらなければならない。結局身体の一部のどこを切り落とすのが良いかということを判断させられたそうだ。
地相の吉凶で死者が増減することの経験。
命の儚さと、一体人間のどのような行為が、環境が、考えが…、
何が死を招き、何が生を保障するのかと考えざるを得なかった。
つづく
※戦時中のことは、和尚の話と「軍歴等証明書」をもとに書いています。
この証明書は各都道府県にて申請が可能なものであり、
広島県では「建康福祉局社会援護課」になります(名称が各府県で違います)。
自分のおじいちゃんたちがどのように戦時中を過ごしていたのか、調べてみるのもいいと思います。