法話

宥善和尚の人生をふりかえって3

 「宥善語録」
   動じない心でいなさい。
   そしてどんな時も 誰に対しても
   同じように言ったり 行なったりしなさい

「和尚の人生を振り返って③」
 宥善和尚、幼名を太一といいました。
神道や道教でも見られる言葉であり、古代思想においては太は至高、一は唯一・根元にて即ちこの名は宇宙万物の根元を表す。父宥榮がどのような思いで名付けたのかは分かりませんが、スケールの大きな名前であるなと思うわけです。

 14歳で石鎚山の寺に入った太一。
師匠の宥心は竹の棒を持ち歩くお方で厳しかった。厳しい所じゃ無い。非常に厳しかった。しかし何でも出来た人であった。生きて戦争から帰って来られたのも師匠のお陰に他ならないと和尚は語っておりました。法を授かると言うのはそういうことよ、と。

 現代でいう中学三年生の和尚はまず僧侶のイロハを仕込まれる。
まず掃除やお経、師匠のお世話、仏教とは何かを教えられた。そして正式な僧侶入門となる出家得度(しゅっけとくど)を済ませ、師匠から一字いただき宥善と名を改めた。実名である。

 厳しい修行に入る前、「加行次第(けぎょうしだい)」というものを書写する。
真言密教では「礼拝行(らいはいぎょう)」に始まり、
次いで「十八道(じゅうはちどう)」「金剛界(こんごうかい)」「胎蔵法(たいぞうほう)」「不動護摩(ふどうごま)」と行うを四度加行と呼ぶ。

 和尚が当時書写した次第は、
十五歳でこんなにも丁寧な字が書けるのかと驚かされる。
いや当時は皆このように丁寧に書くのか。現代人の根性が曲がってしまった字と比較するのが間違いであるのか。それは分からないが几帳面な美しさを感じる次第が寺に残っているのを宝であると思うのは、齢15であのような字の残せる精神文化が人、国の宝だと思うからである。
愛情(慈しみ)の欠如はならないが、人を育てるのは苦労なのだと真に思う。

 半年から一年程、五体投地の礼拝修行をしたのだと和尚から聞いた。
おそらくは相好行(そうごうぎょう)といって、得度をする前かその後か、この者が修行に入れるかどうか佛よりお知らせがあるまで、毎日礼拝を続ける修行をしたのでしょう。天台宗の比叡山にも十二年籠山行(ろうざんぎょう)というのがあって、その修行の前にも同じことを行っている。ここでまず自分の業(ごう)を洗い流すのである。数は煩悩を数える十倍の数、1080遍。

 今時、真言宗は108遍が主流であり、鎌倉時代の記録にも108遍と教える。
1080遍が稀なのか正式なのかは分からない。そもそも人は個々違うのであるから何が正式かよりも、その本人に必要なことをするのが重要である。師匠が思うに、和尚は1080遍が必要であったのでありましょう。

 弘元寺ではその先例に習って1080遍の五体投地を時折行うのだが、
やりきってみればそれがなかなか素晴らしいのである。ただ和尚はおそらく相好行が終わって後、更に一日三度の礼拝行を百日行っているはずである。食事も精進で正午までの二度である。常人にはとてもやり遂げきれない。あらゆることがピンと来た(分かった)のも、この修行が効いていたのであろう。和尚はこの時に自分のすべてを佛に預けたのである。

 身心を浄める修行が終われば「十八道」となる。
動から静へと修行は移る。足を組み、手に印を結び、真言を唱え、ようやく密教の世界に入るのである。私の心はどこにあるのか。どこから始まったのか。佛を目の前に持て成し、深い悟りへ。

 「十八道、金剛界、胎蔵界」とそれぞれ百日。
太一改め宥善は礼拝を始めてからすでに一年が過ぎている。和尚はこの日々、菩薩となっていくのである。厳しい師匠、佛と修行の法から「慈悲」とは何かを徹底的に教えられるのである。

すべてを慈しむ心からしか、すべてを救う教え(仏の智慧)は知り得ないのである。目の前のことをこなすだけではならない。まさに己の心がそのようになっているか。それを確かめながら和尚は進むのである。

この頃、昭和十年。
11歳離れた兄が肺炎でこの世を旅立つのだが
修行中にはそのようなことも知らせてはくれない。

来月に続く。
              
  日切大師弘元寺 令和二年二月廿一日

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