「人生を観るに」
祈りても しるしなきこそ しるしなり。
己が心に信(まこと)なければ。
この道は 病なおしの道でなく、
心なおしの道である。
病ぐらいは心が直るついでに治ってしまう。」
宥善がよく口にした言葉です。
「宥善和尚の人生を振り返って②」
今は陸続きとなった箕島も、昔は小さな島でありました。現在お城は福山駅の裏側にありますが、この箕島も福山城を築く三つの候補地の一つでありました。これは航路の要所であり、かつ地勢のある場所を意味します。真言宗長者にもなられたある高僧も幼少期に病を患われた折、当時は御室大師教會であった弘元寺にて療養をされていました。少し人里離れた山の寺。そういう場所です。
さて箕島のこの集落にはいつ頃からか分からぬが石鎚大権現がお祀りされていた。寺から見れば東方に位置する山中の岩場にある。
ちなみに谷の集落はほぼ村上姓。水野勝成が城主となる時に客将分として島の土地を譲り受けたとされ、一族の檀那寺は福山城鬼門守護の役割を担った臨済宗の弘宗寺である(現在は場所を移動している)。また旧里の信州を訪ねれば同じく臨済宗を信仰していた。
和尚の父である宥榮(明治12(1879)生まれ)が初め真言ではなく臨済禅の修行に入ったのはこの所以による。いつ頃、禅の修行をしたのか記録に残ってはいないが、弘宗寺に務め、村の塔婆を書いたり、供養を行い、日頃は京で学んで来たという気学・易学・地相家相・霊符などを駆使していたそうである。
次いで真言の修行に入ったのも何時かははっきり分からない。
大正6年(1917)9月14日、八大竜王の勧請を行った頃と思われる。この時35歳である。
いわゆる霊感のあった初代宥榮は石鎚大権現を祀る場所で雨乞の為に護摩を焚いていたそうである。地域における先例を見ると寛文年間(1668頃)、国中が日照りに困り、禅宗にも雨乞の法があるならば行うべしと一時期箕島に開かれていた禅寺にて金剛般若経を転読したという記録が残る。
石鎚山の総鎮守である八大龍王を祀る龍王山の山頂社にも雨乞をしたことを記録する灯籠が残っている(文化元年(1804))。宥榮は病気平癒や流行病を治すための加持祈祷に限らず、石鎚山に伝わる真言宗の雨乞祈祷も学んだのでしょう。
真言密教は、その他の宗派(顕教)と比較した時、薬の効能書きをつらつらと教えるのでは無く、苦しむ患者に速やかに薬を飲ませる教えと言われる。島には既に石鎚大権現の信仰のあったことが何よりも大きな縁となったのでしょうが、霊感や占術にいくら長けても、深い信の祈りがなければ人を救えないことに宥榮は気付いたのでしょう。
宥善和尚の誕生は八大竜王の勧請から三年後の大正9年(1920)。旧3月3日お雛様の日のことでありました。時事を見れば今年で第百回を記念した箱根駅伝が初めて開催された年でありました。
古いお堂を存知の方も少なくなったが、あの秘密の小部屋があるかのような作りは伊予の庄屋宅を譲り受けたもの。船で移築し、大正11年(1922)旧8月20日に落慶式を行った。それまでは、寺の場所も今より少し下にあった(現在の寺の下にある自宅の前辺り)。新暦では10月10日(火)のことである。
それから二年後の大正13年(1924)、同じく旧の8月20日、仁和寺から弘法大師の尊像を勧請する。近年まで入仏記念法要が旧暦の8月20日に行われていたのはこの為である。宥善この時、満4歳。鎌倉まで遡ると言われる弘法大師尊像を勧請した由縁はお寺のホームページにて確認ください。
弘元寺の寺名については、父宥榮と宥善の師匠が弘元房宥心であったことから付けられた。(お坊さんには本当の名「実名」と、人に教える仮の名「仮名」というものがあります。住職の正和、副住職の泰教も実はこれ仮名。私なら泰教房○○となるわけです。)
檀那寺の弘宗寺、師匠の名から頂いた弘元寺。不思議な縁を感じるものです。 来月に続く。
日切大師弘元寺 令和二年一月廿一日
《 宥善 七七日法要 》 1月26日(日)15時より
お別れ会として、一時間程の法要を本堂にて行います。
尚、直会等はありません。
自由にお参りいただけますので、どうぞご焼香にご参会ください。 合掌