法話

いのちのみおや「生命の御親」

「死後に会いたい人がいますか?」と訊ねると、
親や祖父母にまず会いたいと多くの方が答えられる。
もちろん妻、夫に会いたいと先に答えられる方もある。

 何故、私達は会いたくなる人がいるのだろうかと考えれば、愛情を与えてもらったから、
かけがえのないお互いの時間、人生を分け合ったから、愛しているからと言われる。
それはただのやましい執着では無いだろう。

 死後、行くも帰るも分からない私を導き助けてくれそうだからと切実な思いを口される方もある。
信心あればお大師さま、仏さまが必ず善い来世まで導いてくださいますが、親先祖に会いたくなるのは「自分の生命のもとだから」という理由が一つにあるのだと私は思うのです。

 生命の縁をゆくりじくりと観念すれば、身にしみて有り難い諸縁に気付くことができます。
「恩に報いるは仏徒の勤め」と言いますが、
これも報いる恩とは何かをまず明らかにすることが大前提。
日々に神棚仏壇に手を合わせる習慣でもない限りはなかなか自覚できるものではありません。
または心の雑念を鎮める。静かに物事を見つめる。これができれば自然と気付きも増えるものですが、一度60秒自分が無心になれるか試してみてください。
それが如何に難しいかを知ることができるでしょう。
自分の心が他人のもののようにコントロールできないものだと気付くでしょう。

 神棚・仏壇のある家で育った人間は自然と過去の歴史を大切にし、つながりのある未来を想像できると言います。それは仏壇があるだけで、花や佛飯、お水を供えることを自然と覚えるし、する必要がある。自分のことだけを考えて終わる日がない。
一日一度は(いま生きているのは親先祖さまのお陰ですと)感謝することもできる。

 たとえ人生の壁を目の当たりにし生き辛くなり、感謝をすることさえ、しんどくなっても、恩を忘れることは無い。心の底に残るものです。
荒れた畑に一粒の善い種も無ければ、花どころか芽も出ません。
不平不満は大地に陰を落とす雑草となる。

恩を知る人間の畑には必ず善い種が残っている。
そいつが今か今かと芽を出そうと必ず準備だけはしているのです。
あとはタイミングだけを待っている。自分の大地にとって太陽となり、雨となり、肥料となってくれる。そういったものが必ず現れるのだと待っている。ただし気付けるかどうかだけは自分の問題。
例えば曇りの日に太陽は見えないが無いのでは無い。神棚仏壇のある家で育った人間は毎日見えないものに手を合わせるから、自然と「気付ける」のです。

 手を合わせる場所が無い方は太陽に手を合わせましょう。
大地につながり感謝しましょう。
これも「自分の生命のもととなるもの」の一つであると確信できた時、
あなたはまた一つ上の気付き、意識にて人生を過ごすことができるでしょう。

 帰る古里がある者は強く、安心できる家がある者はよく働くと言いますが、
私は次の様に思っています。何もこの世の郷里のみではなく、生命、魂のふるさとを知っている。
そこに意識を廻らせ気付ける。ただ死後に両親に会うだけではない、この世に生きている間から生命の御親に気付く。これが伝統的な信仰、さとりの醍醐味である。

弘法大師が詠まれたとされる古い歌に、
 
(あじのこが あじのふるさと たちいでて)
 阿字の子が 阿字のふるさと立出でて

  (またたちかえる あじのふるさと)
  又立かえる 阿字のふるさと

とある。
 
 阿(あ)字とは深遠なるもの。
私達はその子であると覚りの境界を示されたものです。この話はまたどこかで。
生きている間から生命の御親に気付き、感謝いたしましょう。       感謝 合掌

日切大師弘元寺 令和元年十一月廿一日

《ひとこと》
お風呂に入っても落ちない垢をお寺で落としましょう。

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