「阿弥陀さんは救ってくれない」
ある場所で、
「どうも霊が出るようで・・・、
ちょっと怖いことも起きているのでお札を貼ってください」とご相談がありました。
詳細を伺うと、
「はい・・・それは出ますよね」という内容です。
ただ心配なのは、急死をされる方が数人続いている。こうなると大変です。
ただ、霊も祓えば良いというものでは決してありません。
理由があってそこにいるのならば、それなりの訳を理解し対処しなければ、ますます状況をこじらせます。たとえば、霊からすればここに呼ばれて来ているのにエイヤーと言って追い払われた日には、何となることでしょうか。
どのような場面でもそうです。
こちらの一方的な言い分や見解だけでは本質が見えませんし、事は解決しないもの。こちらからはこう見えているが、あちらからはどう見えているのだろうと目を心を向けることが大切です。
結局そのご相談ですが、
それは供養をして差し上げるのが大切。そのうえでお札を貼りますが、それは、お札を通じて迷いの世界から霊魂が救われる、そういった救いの道を指し示してあげられる、迷って来られないようなものを準備しますのでと応じました。好きでそこにいるんじゃない。仕方なくそこにいることもある。それを追い払う方法しか行わないのは僧侶ではありません。私たちは慈しみの心を大切にし、修行をするのです。
まずお施餓鬼(せがき)を行い、ごはんや飲み物をさしあげます。
お経や葬儀と同じこともしていきます。ただいきなり霊の方々が言われました。
「阿弥陀さまは救ってくれない。」
「は?・・・」
お施餓鬼では色んな仏さまをお呼びして救いの光を照らしていただくのですが、阿弥陀如来を念じる所、こんな訴えを聞くのは初めてでした。そうして私はこう言い伝えるのです。
「それは違います。阿弥陀さまは無条件で救ってくれる。そう聞いていたのにあなたが救われないのは、阿弥陀さまが救ってくれないのではありません。あなたは、自分の人生で行ってきた行為を何一つ振り返ることもしなければ、懺悔や反省、感謝の気持ちも起こしません。そして先祖も大切にしない。神、仏、三宝を敬う気持ちも起こしません。それはあなたが間違っているのです。まず懺悔の気持ちを起こし、心を浄らかにし、仏に帰依をしなさい。」
なんでも他人のせい。
なんでも他人にやってもらう。私はそれを恥ずかしいことに思います。
すがるにもすがるなりの心が大切です。
先月の「七仏通戒偈」にも、心を浄めよと教えるわけです。それにも理由があるのです。どんなに環境をよくしても、自分の心に見合ったもの、相応のものが引き寄せられてくるのですから、自分を浄め変わらずして、何が変わるでしょうか。何もしなくて良いと教える仏の教えなどありません。あなたに見合ったそれなりの精進をするのです。
日切大師弘元寺 平成三十一年一月廿一日
《弘法大師の著作より》
金剛法界の仏は つねに そなえているものがある。
観自在菩薩の大悲の三昧に住し、あらゆる衆生の苦悩を除き、
弥勒菩薩の大慈の三昧に住して楽をあたえ、
文殊菩薩の大智大喜の三昧に住し嫉妬を離れ、無我を知り、一如を見る。
一如を見れば平等を得、すなわち嫉妬を離れて一切衆生の善に随喜(ずいき)す。
すれば一切の真実のありよう(法)を謗(そし)る無く、すなわち気付く。
すなわち信ずれば実にまことを行う。
普賢菩薩の大捨の三昧に住して一切離相平等の義を説く。
如来はことごとく知り、ことごとく見たもう。
法の相もなく、非法の相もなく、法を取るべからず、非法を取るべからず、法すらなお捨つべし。いかにいわんや非法をや。これ大捨三摩地なり。
『金剛般若波羅蜜経開題』