10年も前のことを思い出す。真言をお唱えする以外には喋ってはいけない「無言行」が終わり、さて私は一言目に何を話しただろうか。何事も無かったかのように、修行の明けた朝に「おはよう」と言った気がする。
その翌年の無言行が終わった後はどうであったか。多分、「ありがとうございます」と言った気がする。
記憶が、自分の都合の良いように書き換えられた思い違いかもしれないが、特異な修行の時間が終わり、日常に戻った時に放つ、初めに出てきた言葉。それが何か大切な、いざ比べてみると大きな意味があるような気がした。「おはよう」から「ありがとうございます」への変化。なにかごく当り前の私の世界に広がっていた日常が、少し変わったのではないだろうか。
仏さま、自身に向き合う。一つ一つを丁寧に受け止める。相手に放つ。思いを清め、まあるくし、心をまとめ集中する。それらに大きな意味がある。
皆さまの日常の朝はどんな言葉、どのような思いから始まっているでしょうか。 楽しい、淋しい、つらい、ありがたい。・・・自分の腹の底にある感情が未来を予見するかのように思います。思い(念い)は力になるからです。自分の腹の底を知ることは、自分を、未来を知ることになるでしょう。輝く未来に近づこうとするならば、どんなに醜くてもいい。「いま」の自分の姿すべてを受け止めてくれる存在に、さらけ出し、差し出すのがよいと思う。仏さまとはすべてを受け止めてくれる存在。大地も地球も太陽も、私たち生命を受け止め、育んでくれているという事実を思えば、段々と自分が何によって生きているのかに初めて気付かされます。
受け止めたら、次は与えることが大切。
自分だけ、一人、一つだけの存在で生きてはいないのが世の理です。すべては関わり合いのなかで成り立っています。言葉も一たび口より出れば、それを受け止めているものが存在します。仏教では虚空。日常目線でいえば相手、人。一と一が調和をしているのが健全です。一人の世界で完結しないことです。 また言葉を放てば、そこにはそのもの(言葉)の力、念いの力が相手に響いています。当り前のことですが、その事実に気を留めること、気付くことはとても重要です。いつもとは違うものが見えてくるものです。
また私自身を観察すれば、最初の行が終わっての一言、「おはよう」の中にも感謝の気持ちが奥にはあったと思います。がそれでも「おはよう」と「ありがとうございます」の言葉は全く違うもの。相手に伝わっているのは紛れも無く、自分の口にした言葉です。私たちは自分の気持ちを正しく相手に言葉にしているでしょうか。
いま私は○○と思いました。私はこのように感じたよ。私はこうして欲しいと思ったのだけど。。。自分が伝えたら次は相手の思いを訊く。あなたはどう思った?どのように感じた? これも相互供養の形のひとつです。
素直になって、相手からの、自分からの言葉に耳を傾けましょう。言葉を伝えましょう。家族や友人、同僚、大切な人に、あなたは一方通行ではありませんか?
お祈りも一緒です。ご先祖さまをお祈りしても一緒です。言葉は響くものですから。 かならず反響が起きています。耳を傾ける。目を向けるだけでそれは見えてきますし、聞こえてきます。 仏さまとのお祈りも一緒です。手を合わせれば、口を開けば、必ず受け止めて下さっています。そして返ってくるものがある。一方通行にならぬよう、お祈りをしてみましょう。
「朝の前行にお参りして・・・」
昨日の護摩は炎の近くでありがたかったですが、今日は後ろから拝ましていただきました。
行者さんが仏様と一つになられている姿、また皆様の拝まれている姿。
心を静め見つめているとまるでマンダラの中に入っているような気持ちになりました。
また自分がこのような所に座らせていただけるのは、たまたまの偶然などではなく、
父母や祖父母、さらにはもっと上の先祖さま方の計り知れない功徳のお陰で、
今この貴重な時間に居ることが出来ていることを感じ、感涙に浸りました。
(先祖のご縁の積み重ね、お徳積みのお陰があって、今この場所にいる)
帰りに友人から電話があり、「頂き物ですが」と鯛の尾頭付きを頂きました。
「あぁ、ご先祖さまからのお知らせ、ご先祖様が喜ばれてるなぁ」と思いました。
ありがとうございました。
日切大師弘元寺 平成三十年二月廿一日
《焼八千枚護摩の前行》
・24日までは 毎朝5時半前 より護摩。
・25日以降の護摩修行は、
① 朝5時半前 ② 11時頃 ③ 18時頃 です。
3月3日にお参りの叶わない方、是非この間に一度でもお参り下さい。
またどなたでも修行にお参り下さい。
・24日から副住職は無言行に入ります。お話ができません。
宥善和尚、またお寺にお参りの皆さま、祈願申出の皆さまの滅罪と心願成就を真剣にお祈りしております。ご協力の程、宜しくお願い致します。