法話

死者とつながる

 《 できごと 》
今年も一週間の前行を行ない、柴灯護摩のお祈りをさせていただきました。
受戒もとてもありがたく、皆さま、来世まで届く、生死の海を越えた「功徳」をお持ち帰り頂けたのではないでしょうか。やはりご利益は足を運ぶ所から。またお参りください。 

今日も一大事、明日も一大事、生まれるも死ぬも一大事。
自分がいま何を大切にしているか。 意識して、まずは私を知りましょう。

《 死者とつながる 》

亡くなった方はどこへ行かれるのでしょうか。
お坊さんはお葬式で一体何をしているのでしょうか。
お坊さんは死ぬのは恐くないのですか?というのはご家族からよく尋ねられる質問です。
過去の法話「此岸と彼岸」「この世とあの世…」などでもお話させていただきましたが、あの世のことは神道、仏教、西洋教など、国も違えば語られる様相も様々です。
自然に還るという教えもあれば、何も無くなるという考え、神や仏のいる場所に行くという教えもある。また再びこの世への生まれ変わりなどしないと教えるものもあれば、迷いの残る限りはまた生まれ変わり(輪廻)をすると仏教では教えます。

 一体何が本当なのでしょう。世界にはもっと色んな死後に対する考え方があって、その様相様々です。一つ確実なのは、「この世」があれば「あの世」があるということぐらいでしょう。
仏教では心と体を切り離して考えないように、この世とあの世さえも切り離して考えません。

般若心経の前経に、
「世間の闇を照らす明灯にして生死の海を渡す筏なり」とあるように、

また弘法大師が、
人の無明むみょう(根本的な迷い、煩悩に覆われていて真理が見えない)を説いた後、
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
 死に死に死に死んで死の終わりに冥し」と言葉を残されたように、

この世に生きている私たちが今、生と死の繰り返しのまっただ中に留まっていること、仏教が、お大師さまが、生と死とを越えた真実の智慧を求めていることが分かります。

 さて私たちの多くは亡くなった方の為に《追福追善》のお経を唱えたり、法事をします。
最近では「冥福」という語が死後の世界を意味する言葉であることから、死後の世界など無いと考える人の為に政治家やニュースなどでわざと「冥福をお祈りします」という言葉を避けることが増えてきました。浄土真宗も追福追善など必要ないと考えているのでこの言葉を使わないそうです。
ただ生きている私たちは大切な亡くなった人の為に何かできないか、また会えないだろうかとずっと考えるもの。今月は死者とつながると題しましたが、密教の阿闍梨は仏の境地を通して死者と一体となり、死者と仏と共になって仏の境地へ、仏の浄土へ往いこうと祈ります。
死者を離れた存在とせず、死者が常に仏と共にある存在として浄土に往けるようにまず親しく真実を授けます。

 私は法事などでよくこのように説明します。
お祈りをする時に、亡くなられた方の《真実》が現れるように拝んで下さい。
そして同時に自分の内側にある真実も同じく現れるようお祈りして下さい。
そうすれば私たちは初めて、亡くなられた方とお互いに真実をもってつながること、交信を得ることに遇える。

私たちは親しい人との日常会話でさえもちょっと認識が違うだけで理解も感じることも違うわけです。対して真実は生死を越えた光明のようなもので、あらゆる障害や不安も乗り越えます。法事や七七日迄のお逮夜など、私たちはただ亡くなられた方の為だけに拝んでいるかのように勘違いしがちですが、実際には拝むこちら側も光輝くこと、これがとても大事なのです。
生きていても、亡くなっても、お互いを照らす道を作っていく。
こういった祈りが本当の供養になりますし、お大師さまの真言宗らしい供養と言えます。
仏さまという先生を立てて心から礼拝し、親しく学び、私の内の真実(仏性・菩提心)を明らかにする。皆さん、生死を越えた祈りをしましょう!

《 ひとこと 》
・真の安心は信じる心に因る。
 祈りましょう。拝みましょう。
  我が恩に目覚めましょう。

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