私が昨日ふと観ましたテレビで言っていました、
「科学でもやっぱりまだよく分からないもの、人間の超直感というのがあって触れるだけでそこに何があるのか分かったりする人がいる」と。 私の身近な所でもお坊さんや気を感じられる人、鍼灸師さんにも人に触れるとどこが悪いかサッと感じる人がいますし、見えないものが見える人、分かる人、
また修行をした人になると過去の経験やいまの状況を直感で知るような人もいます。
こういった不思議を解き明かす方法の一つに仏教は原因と結果の「道理」というものを少しずつ紐解いていくと良いと説いています。
年頭にもお話ししたので少し話は重なりますが、
新年早々丸いたんぽぽの綿毛が畑に顔を出していました。
まだ冬まっただ中なものですから、私もちょっと上から目線になって、
「なんて日本人の情緒感を奪い損なうタンポポなんだろ。確かに雪景色に頭を出している白丸の綿毛は見てみたいものだけれど、でもちょっとこの時節に咲くなんて残念綿毛さんだなぁ」
とか、ふわふわ綿毛さんを勝手に評価する。
だって私は常識的にたんぽぽが顔を出すのは四月頃と学校で習いましたし、
子ども時分からも たんぽぽは確か春にしか見かけません。ましてやフワフワ綿毛が舞うイメージは大袈裟に言って初夏でしょう。
とっても気になるのでインターネットでたんぽぽ・綿毛・時期と調べてみますと、
「綿毛は花が咲き受粉し、しぼんでから一ヶ月ほどして現われます。花が咲いた後なのでだいたい四月から六月である」と書かれているわけです。
つまりふわふわにはどこにも罪が無いのです。どういうことでしょう。
花が咲いてしまった以上は一月であろうとも自然の理によって秩序正しく 白いふわふわは顔を出さなければならないのです。 真犯人は十二月に季節感を読まず顔を出した花なのですね。
いやしかしそもそもの黒幕を考えてみると暖かい冬が黒幕か。
はたまた自然の恩恵を省みることなく我が物顔に生きる人間というのが黒幕か。
いやこれも地球の永いサイクルの一環であるだけなのかもしれません。
答えは一概一つにはしぼられないものですが、そういった因縁、縁起するものを結びつけ結びつけ、真に深めていくと般若心経の核心「空」に辿り着くのですから、すぐに匙(さじ)を投げてはいけません。
最近、大変感心するお話がありました。
弁才天さまの護摩が終わって、後片付けの掃除も済み、皆で輪になっていた時のことです。
その人は言いました。
「ひとつ」って何でしょう。例えば時計もね一つなんですよね。でもその中には1があって2があって3があって…12まであってやっと一つ。時計なんですよね。みんな一つといって、一人といって、ますけど、一人、ひとつって、そういうふうになっていて、初めて、一つなんですよね、と。
本当です。いろんな縁が集まって初めてひとつはできています。
ひとつぼっちで一つはどこにもありません。
まさしく「さとり」とはこういった気付きで、このような目覚めを仏といい、
道理に暗いのを凡夫(ぼんぷ)といいます。
正月に白い綿毛が咲いています。 これは異常で大変なことだと凡夫の私の頭は思い込み決めつけて問題のこじれは始まります。ちょっとしたことから「ありのまま」の本質は少しずつだけども顔を隠していって、塵も積もればなんとやらです。真実の光明(こうみょう)は遙か彼方へ逃げていきます。
ただ私の悪偏見が「しあわせの光」を遠ざけていて、
私の限りある何か(肉体・現象世界)だけで判断し解決しようという
愚かな狭い推察心が奪い合いや憎しみ、争いを引き寄せているのです。
誰かとこじれた関係、目の上のたんこぶは全て相手に原因があるわけでは無いでしょう。
私の歴史を振り返り、遙か過去に立ち返ってみますとその原因はいくらでも潜んでいて、
例えば精神を統一して自分の肉体を観察してみれば忘れていた昔の痛みの記憶や歪みが遺伝子にそっと潜んでいて悪い作用を誘発していたりとか、またその逆に遺伝子レベルで良い作用を誘発している世界を知るなんてこともあります。
相手は自分ではないから簡単に変えられませんが、自分は自分ですから、もっともっと良いところを知ることもできますし、忘れていた遺伝子レベルや連続する魂レベルでの記憶を明らかにすることだってできます。
ただ私たちは今日よりも少し磨かれると良いし、自分が囚われているだろう悪偏見があるならば、
神仏に力を借りて、勇気をもって少しずつでも手放すべきでしょう。
思い込みに囚われず、そこにあるものをそのままに観る。
今にも飛んでいきそうな白い綿毛のふわふわさん。
それを目の当たり儘(まま)に見たならばそのまま風に乗って私は空を散歩するだろう。
いまだ多くの人が知らないこの世に生きる物事の本物の深い情緒を味わえることだろう。
ただの想像ではなく、大地やたんぽぽ綿毛や風と一体となっていったならば
そういった境地を垣間見ることもあるだろう。
最近おもしろい研究発表の記事をみました。
「よく祈るお坊さんは一般人より共感力がすぐれている。また護摩を焚く前、最中、後では遺伝子に不思議な変化が顕れている。祈りはなにか不思議な影響を人に及ぼすものがある」
日本でもやっと祈りの世界の不思議が注目され始めたようです。
何でもすぐ「当たり前」となってはいけませんが、
お大師さまはその不思議さえも本当は不思議ではないんだよと教えてくれます。
「有り難い」不思議です。
ネットで調べてただ知識で知った道理というのは道ばたに落ちているものを拾っただけのようなものでしかありません。肝心は自分の内から自然と沸き上がってくる智恵やその感覚です。
不思議だなと感じることがあれば携帯ですぐ調べるよりは、
昔あったアニメ一休さんがトンチを使う時のように精神を統一してじっと座ってみるのがいいでしょう。
きっと時間はかかっても自分の力で物の道理に気付けます。
それが人に生まれたものとして、より人となるのに、大事なことであるだろうと私は思います。
花一つ観察しても道理がある。
因果の一片はなかなか正しくなど量り難いものですが
「如実(にょじつ。実をありのまま)に知れ」を心に持つことが肝要です。
ただ季節を外れたかのように真冬に頭を出した綿毛であっても、
それもすべて自然の理の中で生きています。
どのような状況にあろうともあなたも同じ道理の中で生きているのです。
実はそれが十善戒の第十「邪見せず」に沿った生活の有り様でもあります。
これに気付けるかどうか。
大切なことです。
今年は自分の内側から自然と沸き起ってくる
おおきななにか をつかんで感動してみましょう。
その大きな何かの正体こそが あなたの内に宿る「光明」。
あなたの輝くすがた
光明=真実=仏様=お大師さまです。