先月の浄土(仏国土)について、
浄らかな心の仏がいらっしゃる場所は皆、清浄な世界、浄土となるから、
仏の数だけ浄土が生まれるのだと話しました。
昨今、家族間での痛ましい事件が多い中で、家の中に手を合わせられる場所がある、
仏さま、お大師さまに助けて頂ける場所がある。それは本当に稀であり、ありがたいことです。
自然界を始め、親先祖あっての私たちです。
自然のありあらゆる物事を大切にすること、先祖を敬い大切にすること。
何事にも手を合わせられる生き方ほど尊いものは無いように思います。
日頃の不平不満は貧乏不幸孤立の原因となります。
さて死後の世界のはなしとして始まったこのシリーズもそろそろお仕舞いにしたいと思うのですが、
死後というのは、この私たちの永遠に続くいのちの延長線にあるものでしかなく
「はじまりもおわりもない」に行き着かぬ限りはずっと続くものでしょう。
来世はありますし、ただ過去(前世)の記憶の延長線上に私たちは今立ち踏ん張っているだけなのです。今の状況を解説すると、それだけのことなのです。しかし、いま生きる己の命を熱く実況中継すれば、喜んでいたり悲しんでいたり頑張っていたり休息したり働いていたりと躍動しています。
陽であろうが、陰であろうがそれがそのまま未来の種になります。
「いま」という瞬間は大切です。だけれども、私たちは過去にあったことや未来への不安の囚人となって自分で作った牢舎からよく出られなくなる生き物です。
仏教の教え、仏さまに出会うとは、己が作り出した牢獄を時に優しく、時に厳しく打ち砕くもの。
「智慧の法輪はひとびとの悪を摧く」といって、
法輪は説法、教えのことです。これも仏様の愛情表現、親心の一つでしょう。
摧く=愛情。
文字だけにすると反対の言葉に見えますが、親が子を叱るという愛情があるように、
仏さまはあなたの悪い癖、習慣を打ちくだいて下さいます。
煩悩を摧くことを仏教用語で摧破ともいいます。
それは、時にかたじけなくも慈悲のぬくもりをもって、
時にもったいなくも智慧の一喝をいただいて、
悩む者の、過去世の業も昨日造った罪も摧きます。
石鎚山のご詠歌にもありました、
まえは神うしろは仏ごくらくの
よろづの罪をくだくいしづち
ごくらくを願わば祈れまことこめ
心まがらば打つぞいしづち
石鎚権現さまのお徳を表したお歌です。
自分の執着しているものを打ち砕くのは大変なことです。勇気が無ければできません。
加えてそれが悪い癖であったとしても、人類の宿弊でしょうか不思議と愛着が湧いていて昨日捨てたのに今日また拾い直している。人の癖とは難儀なものです。
とにかく良い習慣を身につけようというのはお釈迦さまの時代からも言われます。
「良いことは進んでやるようにしよう。悪いことはやめよう。」
その繰り返し、繰り返しが人に美しい仕付け糸を施す。
それは自分が努力しなければならないことです。
信仰は深いものです。先程も、母も祖母も腎臓が悪く、私も生まれてからずっと数値が悪くて難病申請をしようかと言っていたのですが、お祈りをし始め、お墓をきちんと祀りはじめてから病院に行くと「誰かのカルテと間違っていたんじゃないかという程に良いです」と言われ、元気なんですよというお話を聴きました。これもお陰です。神さまのお陰でしょうか、仏さまのお陰でしょうか、お大師さまのお陰でしょうか、ご先祖さまのお陰でしょうか。
それは色々あると思います。裸で寝ていれば風邪を引くように、ただ服を着るようになったというのもあるでしょう。私たちは気付かないものです。
逆に、病気になることもお陰です。事故に遭うこともお陰である場合も沢山あります。
奥に潜む原因やそれに伴う結果は分からないものです。目先からは悪い出来事も未来になればこれが私には必ず必要であったのかと気付くこともあります。
肉体に宿って生きているいのち、私たちは目に見えるものしか理解できないものですが、
今一度ただ一つの「いのち」に立ち帰り、自分を、親を見ることが大切です。
仏とはなにか。それは親から子への真心を知ることに似ています。
話が今月もずれてしまいましたが、このシリーズはこれで終わりたいと思います。
前の世、前の世、前の世、この世、
あの世、先の世、代々と、成長してまいりましょう。