法話

受けとめる側と 受けとめられた側

 今日は、あるお葬式の話を聞いて思ったことを書きます。
お坊さんというのは、死者を見送る現場に立ち会うことが多いものですが、しかしながら現代で「看取り」の現場に立ち会うのは看護師さんや、在宅ケアに関わる介護職、ヘルパーさんが多いような形になっています。
「看取り」というのは、死期まで見守り看病することです。

今のお坊さんは、その人が息を引き取った後、葬儀の場で、死者に対し、仏の世界に導くという部分でのみ関わるという姿が多くなっています。理想的には、息を引き取るまえからお坊さんがご本人にお会いし、その家族と一緒に死について考える。そうすると、本人だけ、家族だけでは思いつかなかったものも見えてくるものです。 また現代社会はお金の計算だけで動く葬儀産業の在り方におどらされ、また生きている者(見送る者)らの都合だけ、死に行くものの魂はなおざりの様相を見せ始めました。

 また一方では、残される家族を置き去りにし、死に行く者だけの都合で葬儀が行われるという形も都会では進んでいます。 また誰にも看取られない孤独死が増えているのは皆さんのよく知るところです。

 社会は、死んだら何も無くなるという 虚無論 が増えているようです。
発生する原因があり、無くなるというエネルギーが働く。
私たちの命の終わりという「無くなる」は果たして発生する要因までも終結するほどの出来事であるのでしょうか。世の中は私たちが何となく思うような程度のもので構成されているとは私は思えませんし、仏教もそうは言っていません。

 煩悩にまとわれて、それをくりかえす魂。それは一つの記憶の箱のようです。
現代社会でいえば、例えばあなたの魂は パソコンで使う、文章などデータを保存するUSBフラッシュメモリー。
あなた(USB)のつながるパソコンがあなたの頭脳、知恵を働かせる作用をするもの。
おおまかに言って肉体、またあなたを取り巻く環境そのものです。
USBのつながるパソコンが停止する。つまりそれが、いわゆる息の止まった状態といえます。
この世の肉体からまさに魂が抜け出ようという状態です。
この説明からすれば、現象世界と死後世界のパソコンがあるということになるでしょう。
そして、そのパソコンにはいろんな特徴のものがあると考えられそうです。よく、
「七七日は特にしっかり拝みなさい!」
と言われるのは、簡単にいえばUSBという魂が停止したパソコンにくっついたままの状態(地縛霊)、
また霊界におけるあなたの魂に見合ったパソコンを探して宙にふわふわと浮いている、
またさ迷っている状態などと想像できます。
迷わずスッと往ってほしい。だからこそ、
「生きている間に仏縁をいただくのは大切なんだ」と訴えたい。

だからこそ結縁潅頂はありがたいのです。
死後、魂だけになって、仏さま(浄土世界)とよくつながれるパソコンに刺されるのか、争いの世界、餓鬼の世界、地獄の世界ばかり見えてしまう、そんなパソコンにつながってしまうのか。
死んだ後に往く世界を考える!。それは大切なマインドです。

「性根の悪い生き方をするな!」
というのはこのような事からもいえるでしょう。

 さてそれでは仏さまはどこにいて、いったい何になるのでしょう。
どのようなパソコンへも光で駈けめぐり、世界中とつながるインターネット。これが菩薩さま、観音さま。みんなのために働き回っています。そのインターネットの回線をすべて取り仕切る本体(サーバー)、これが如来さまとイメージできます。

 つまり、私たちUSB単体だけでは完全消去もできなければ、何かが書き込まれることも無い。
自分の魂の形状にあったパソコン(肉体、環境、作用をなすもの)とつながり、
そしてインターネットを通じて、仏さまや大切なものとつながる。
最後はすべてのパソコンにつながっているサーバーという如来の存在に気づく。

 わたしたちは仏さま、菩薩さま、如来さまとつながることによって、
大切なデータを流し込めると考えるわけです。

また、いらないデータ、苦しみやそれにくっつく感情も仏さまたちとつながること、また
「お願いー!」と願うことによって、もつれた紐糸もスッとほどけていく。
一心にお願いしたら、通じる。それが仏さまの本当にありがたいところだと思います。

 お大師さまの教え(真言密教 入門編)としても、自分の魂を仏さまの世界とつなぐ、仏さまの世界に〈意識的にみちびかれるようにする〉というのはとても大切なプロセス、作業です。

 「生きている間」、「死んだ後」、わたしの「魂の行方」、その「生まれ変わりの仕組み」、またそれに対して「仏さまとは、どんな働きをしてくださるものなのか」などのお話しを簡単にですが、現代風にしてみました。

 では、お坊さんはどんなことをしてくれるのか。
心臓の止まった後では無く、人がまさに息を引き取るという場面で、真言やお経をとなえて仏さまがたをお呼びする。すべての魂が本来帰っていく場所に仏さまと一緒に導いてくれることです。
息を引き取る方の魂が今肉体からまさに離れ、死後の世界におもむく時、迷うことなく、苦しむことなくスーッとその世界へ移行できるようにサポートすることです。
特に重要なのは、仏教は三宝を大切にする。これが根幹です。
その仏法僧の三宝のうち、「僧=仏の修行の実践者」の仲間に入ってもらうのが大切なのです。
今からでも、同じ志しを持つ「あなたも菩薩さん」になってもらうのが重要なことです。

つまり肉体のあるうちに、仏の世界(すべての命が平等にある世界)、その境地に向かうように意識的に投げかけること。詳しく仏様から直接に教えを受けることです。

 死後の世界は魂がもといた世界。この世でも、例えば肉体を取り去る冥想をすれば死後の世界と今の肉体ある世界の境界線は取り払われる…まぁこのようなむつかしい話はまたの機会にしましょう。

 さて、今日のテーマは受けとめる側と受けとめられる側でした。
これは例えば、ある人をとって話の話題にするこちら側の話(□)と、その相手側(○)のこと。
大抵、合っているようで合ってもいない。話の上手なひとの尾びれ背びれは見上げたもの。
コップひとつを取っても、私たちは自分の認識の中でしか、それ(コップ)を捉えられません。
目の見えない人が象を触って、しっぽだけを触ったものは象は細長い生き物だ、体を触ったものは平べったい生き物だ…というお話しが仏典にあるように、
私たち□は○のことをなかなかよく認識できていないものです。
親と子でもそんなものです。三才の子は行動は幼稚かも知れませんが、すぐ物も覚えます。
見えている世界、感じている世界は、いまの私たちより優れているかもしれません。
私たちにも三才の頃があったのに、いつのまにか忘れてしまっていますね。
近頃は昨日の晩ご飯も忘れてしまいます(笑)。 

 □と○。私たちは先に死に行く者の気持ちを理解しているのか。
逆に、この世に残す者、家族たちの気持ちを理解しているのだろうか。
現代人は死がぼやけてしまっているようです。
身近な者を無くして初めて、これでよかったのかなと後になって悩んでしまう。

「死ぬって何なのか」。
生きる事も、「いつか人間は死ぬ」を考えて、初めてリアルなものへと 本来なるはずです。
我が人生、家族の人生、それは「死」は遠いものでは無く、いつでも起こりうるものだと、
そう考えて今日を共に過ごすのも大切なことでしょう。 

 また、死んだら終わりでは無い。

  これは本来、 とても大切な感覚です

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