法話

自分を磨いて知っていこう

「よのなかのはぐるま」というものがありまして、
わたしたち、生きものは
何一つとして、
じぶんだけで生きてはいない。生きてはいられないものです。

 生きているのでは無く、
 生かされている存在
というのが事実です。

 ゲームの得意な若者たちは、コントロールキー(動かすもの)、
ゲームの内容、特性をよく理解している。

わたしたちは知っているのでしょうか。
自分を生かしているものを、自分のこと、体、性質、こころを・・・、
よく理解しているでしょうか?

そして、人間っていうのはゲームのように簡単にはできていません。
ひとつ、同じボタンを押したとしても、
人によって、想うこと、感じることが、違ってきます。
そんなのはあたりまえですよね。

 さて、思い出してください。

日々の中で、
「思い通りにいかない!!」
そう怒ったり、悲しんだり、憤ることがあると思います。

そうして、その「怒り」「悲しみ」をゆっくりと観察し考えてください。
それは他者に向けての怒りなのか、自分に向けての怒りなのか。悲しみか。
身勝手になりがち。それがひとです。

「自分はだれにも迷惑をかけていない」なんて思ってはいけませんし、
だれの世話にもなっていない。そんなの滅相もないことです。

それはよくよく自覚しておくべきことです。

ひとは自分が経験してきたもの、知っているもの、見てきたものの中でしか、
ものごとをはかれません。

だから、「自分は見識が広いんだ!」なんて思っている人も、
通常それは自分の世界の中からだけの見聞録でしかないのです。

 そもそも、私たちは「お互いに生かしあっている」、
そういう関係性が本当なのだし、そういう生かしあいのめぐり合わせの中で
こころ穏やかに生活できるのが 理想だなって、ちょっとくらい思ってもいいとおもいます。
意識的に、こころを切り替える「瞬間」、「気勢」をつくるのがいいでしょう。

 家族、お友達、仲間、先輩、後輩、嫁姑、
家庭のなか、学校や仕事場、電車のなか、
身近な歯車どうしで、ギシギシと頭に響く音を立てあわなくても、本当は良いはずです。

あなたは本当に隣人(本当に大切な人たち)の性質を知っているのでしょうか?
生い立ちから、今に至るまで、その人が何を思い、何を感じてきたのか。
その思いや経験を本当に両腕をひろげ、自分の胸をひらいて、受け止め、知ろうとしてきたと言えるでしょうか。

 またそれは自分自身にとっても同じこと。
自分を両腕で抱きしめ、両の手で心も体も
受け止めて、足の先まで撫でてあげたことありますか?
いま(これを読んでいる時)、自分の手を使っていたわってあげてください。

自分の身体を知ること、休めること。 本当に心を知ること、休めさせること。
意外と自分のこと、
知らないことばかりです。

だからね、ちょっと他人を変えようなんて思わず、自分が変わってみましょう。
それが本当に良いめぐりを引き寄せる方法です。
相手を変えるなんて滅多なこと、まずは自分の錆び付いた歯車をみがいて、
心、あなたの言動、身体に、潤滑油をそそぐべきです。
自分の芯(大切なこと)を見つけた時、
気付けば意外にも、周りとの関係性も自然とよくなっているものです。

この世の形あるもの、無いもの、すべてのものが歯車で動かし、生かし合っているのを観察する時間、それを持ってみましょう。

平成廿六年一月廿一日
 南無大師遍照金剛 ありがとうございます

お経にはまた、
そのような私自身のもつ、また内在されるとも、包まれるとも、一致されるともいえる、

「身心のいきつくばしょ(究竟くきょう)を知るには、
秘密荘厳ひみつしょうごん住処じゅうしょしょうするなり。」

また、
「もし大覚世尊だいかくせそん)大智潅頂地だいちかんじょうちに入ることができたならば、
みずからげん三三昧耶さんさんまやじゅうす」と説かれる。

 心はどこにあるのか。
という話から始まったのですが、

お大師さまのさとりの教えに入っていけば、
心だけでなく、身心をふくめた
わたしの全存在のいきつくばしょ。
また、
もとよりあるすがた。
また、
ほんらいのかがやく、曼荼羅の
いかしあい。そのものに入っていくことができるのです…。

 お大師さまの教えとすれば、

我々、未熟な者(凡夫ぼんぷ)は、自力では真実をとうてい見ることができない。
だからこそ毘盧遮那如来びるしゃなにょらい大日如来だいにちにょらい)の加持かじを受けなければならないのだ…と。
如来にょらい加持かじを得て、
私のからだの在処ありか
こころの存在そんざい
ことばの行きさき、

その真実の義を知るときは、
すなわち一切の罪は滅し、すべてを知る(一切智いっさいち)を得るのだ。と…。

 今月は少し難しくなってしまいましたが、
お経の一節をたくさん引用しています。
ですから声に出して読まれるだけでも功徳があります。

何度か声に出して読んでみてください。 

合掌

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