法話

苦しみは 思い出に

 「苦しみにぶつかること これは仏の慈悲に他ならない。」
と言います。

 はて、いったいなぜ苦しみにあうことが仏さまからの慈悲なのでしょうか。
仏さまは、いつも私たちを苦しみから逃して下さる、そういう方では無いのでしょうか。
悩みにぶつかるのならば手を合わせる意味も、
信仰も必要が無いのでは?と思う方もあるかもしれません。

しかし、仏の慈悲というのは本当に深いもので凡人の考えでは及ばないところがある。

目に見えるもの、見えないもの、宇宙、すべての命、初めも無く終わりも無い、その一部始終も、
何もかも、全部を包み込んでいる計り知れない智恵のもと、
今この一瞬も、常に働きかけられている仏さまの深い慈悲。

 少し言いかえてみれば、
足し算ができない一年生の子どもがいたとします。
だからと言って親が代わりにいつも足し算をしてあげますか?
いいえ、子どもに勉強することを教えてあげますよね。

 深淵にして大切な大切なこの命をさずかり、
その命を身体におさめている私たちは、それぞれに、
あるお勉強をする為、この世に生まれてきている。そのように感じます。

その宿題の答えを自分の力で見つけ、得られるように、
無条件のやさしさで、常に私たちを抱きながらも、
あの手この手で教えて下さっている。それが仏さまなのです。

基本、世の中というのは「因果応報」です。
自分の善し悪しの行いが未来に、報いとって現れる。

ただ、仏さまというのは
善いとか悪いというようなもの差しで
私たちを測ってはいないようです。

どうすれば、偏見にみちたその曇った眼を払拭できるのか。

一人で生きているのではない。生かされているのだ。
本質的には生かしあっている、いつそのことに気付くのか。

認められない、許せない。
その凡人の知恵から、いつ深い仏の智恵に目覚めるのか。
 仏さまの考えは深いのです・・・。

 「永遠のいのち」に気付かないうちは、
自分の積んだ業の報いに踊らされているだけ、そんな人生で終わってしまいます。

つまり、(また人間に生まれ変われられるか分かりませんが)次に生まれ変わっても今と同じ。
いや、今と同じくらいならばまだ良いかもしれません。
しかし、よく考えてみて下さい。
食事で一つ命を頂いても、その命への感謝の気持ちも起きない。
安い食品も、服であっても、
海外では、遊ぶことも無く、低賃金で働いて下さっている方が大勢いらっしゃって、初めてできている。 

あなたは少しでも、生かし合う世界で生きていますか?
それとも自分だけの世界で生きていますか?

いまの私の死後、来世はどうなるでしょう?
このままであれば、死んだ後はどこへ行き、どうなるのでしょうか。

 人は苦しんだり、悩んだりしなければ、考えないし、成長しない。
大切なことにも気付きません。
仏さまは、その人が信仰している限りは、その人が乗り越えられないような
苦難が降りかからぬよう、見守り、助けて下さっています。
これはとても重要なことです。

また、人生の 思い出 というのは、
苦しみを乗り越えて得た喜び、感動が多い
というのもまた一つの事実であるようです。

 苦難、

きっと、それはあなたへの何かのサインであるようです。

関連記事