法話

いらぬ草を引っこ抜け~いつまでも手放せないものがある~

いつまでも手放せないものがある。物や気持ち、見えるもの、見えないもの。
私を豊かにするものならば、いくらでも持てば良い。しかし、私を不幸にしているものは常に意識をし、手放していかなければなりません。よく考えてみれば、一日の間に私たちは様々な意識を起こしています。
外に出れば「寒いな」、部屋に入れば「温かいな」「気持ちいいな」と思う瞬間もたくさんあるでしょう。
しあわせになれる絶対の法則は《感謝》ができること。
どうして感謝もできぬ貧しい心の持ち主に好運と幸福が訪れることでしょうか。

 仏教は問いかけます。
「あなたは本当に自分の事を知っているのですか?」と。

人は満足や幸福を得る為によくある条件を設定しがちです。
○○が○○をしてくれたら嬉しい。そうでないと私の心は嬉しいとは思えない。
こうなれなければ私はしあわせではない。

つまり多くの人々は自分の経験値から幸せになれる条件を無意識の内に設定しています。
智恵のある仏は些細(ささい)な事柄にもその内に含む神秘性を見て大いに喜び誉め称えます。
欲に溺(おぼ)れ、感謝の心を失った者はある一つの事柄(ことがら)の偉大さにも気付けません。

例えば、私の体の中を常に走り続けている血液、その一滴にも満たない細胞の中にも父母、祖父祖母、先祖たちの恩恵(おんけい)が脈々と躍動(やくどう)していて、私を生かそうとしている事に気付けているでしょうか。
「学ぶ」というのはただ本を読むだけでは気付けないこともある。
時に心を静め、自分の心の内を探索(たんさく)する。
テレビ、パソコン、携帯の画面からちょっと離れて、仏壇やお寺の本堂で《目覚め》を意識することも重要なことだ。

「もしかしてこれは自分の思い込みなのでは無いだろうか。」

「なぜ、いつから自分は、○○で無いといけないと思っているのか。
 ○○じゃなければ幸せにはなれないと、いつから決めているのだろうか。」

重要であると思っている事が実は私の首を絞(し)めていた。どうでもいいと思っていた事が実は自分にとってとても重要なことであった。お大師さま(空海)の教えは、もとより自分が仏であることに気付くこと。
眠っている時に見ていた夢は人に違(たが)うことなく目を開いた時に覚める。仏から見れば、気分によって頑張れたり、気分によっては投げ出してしまったり、腹が立ったり、満足できたり、それは夢と同じようなものだと言います。

だから《目覚めましょう》なのです。 いつまで経っても気付けないのは問題です。

人は必ず死にます。死ぬまでには一つでも確かなことに気付けた方がいい。自分だけ尊重していても面白くない。他人の言うことを聞けぬ自分を作っているのも自分であるし、不幸である自分を勝手に作っているのも自分です。
全部、自分が作っている。しあわせな自分を作るのは相手や他者ではありません。自分なのです。

 自分のいらぬ草を引っこ抜け。根の深いものを引っこ抜け。
私の畑もすっかり綺麗になったなら、しあわせの種を撒き散らせ。
数も限りの無いものに生かされている。

どの命もそうだ。

自分に気付くことから始めよう。 心と体の垢を落とす、それが仏教の教えだ。
自力ではどうにもならぬ事、それは力一杯、想い一杯、仏さまに頼りすがればいい。

ぜーんぶ、自分なのだが、自分だけではどうにか出来ないのが人間だ。

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