法話

きづき

  今年の柴灯護摩(さいとうごま)は、初めて雨の中でのお祈りとなりました。
「どうぞ雨を止まして下さい。」と祈るのも毎年の恒例になっていましたが、やはり流石だなと思いましたのは、
当日の朝に八大竜王さまへ参った時。その時だけは見事に雨も止み、お祈りをさせていただきました。
そして今年ちょっと違ったのは(正和)住職の、
「雨でもいいのよ。雨は雨で意義がある。」という言葉がもとよりあったこと。
竜王さまもその言葉を聞かれてか、結果としてお参りには手元足下と少し難儀がありましたが、
いつもとは違う、足下から炎が飛び出す丸太の上を歩く「火渡り」を皆さまにご修行いただけました。
仏さまの偉大さは、鋭い智恵と温かい慈悲のもとに私たちを導いて下さることです。
八大竜王の「恵の雨」によって悪いものは洗い流され、また仏さまお大師さまの導きにより、
普段には出会えない「ご修行」の縁を頂けました。
すべて、意味がある、意義がある。
それに気付くのが遅いか早いかそれだけのことで、
目の前に起きている事はすべて、自分の等身大のできごとなのです。
あなたの業と、いまの心の相、それだけなのです。

  きづき

浅はかな、自分の知る限りの知識で私たちは物事を判断する。
殊に肉体を有する私たちは、自分自身に甘いものである。
いつも心臓は動いている。
感謝を尽くさぬ私たちは、自身の命(尊さ)にいつも気付かずにいる。
自分の意志で心臓は止まりません。
自分の意志で動いている訳でもありません。
宇宙の不思議、自然の不思議、体の不思議、心の不思議、
まだまだ人間は、
世の中のことを知っているようで、
小指の先程も自分の生きている世界のことを知りません。
なぜ心臓は動いているのでしょう。
私は神さま仏さまが、
生かして下さっているのだと心得ています。
だから心臓がドクッとなる度に、
生きなさい。生きなさい。ありがたく、感謝に生きなさい。
と全身に血液をながして下さっているのだと思うのです。
けっして私を
駄目にしようなどと思って、
神さま仏さまは心臓を動かされているのではありません。
じぶんのとうといいのちにきづいて

一瞬一瞬を。

私は命の本質(根元)をお大師さま、仏さまの境地に見いだして生きています。
自分の弱さにただ甘えるのでは無く、
もっともっと本当に、仏さま、お大師さまに寄り添い甘えていいのです。

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