法話

ミャンマーという国

ミャンマー国、第十三代 三蔵位 認証授与式典に招待され、日本から先ずタイまで行き、そこから乗り継いで十二時間。
国民のほとんどが仏教徒であり、お坊さんも多い。男性 ならば人生一度は出家するという習慣があるくらいだ、
どこに行っても右肩を露出した赤褐色の袈裟(けさ)姿が目に映る。
お釈迦さまの教えを心の軸に置き、生活を送るこの国の人々は、人が生きる上で失ってはいけない大切な何かを一日一日と自分の心と魂に刻んでいるように見える。

 生きもの、命を大切にすること。盗んではいけないこと。怒りを露わにする事は恥ずかしい行為であるということ。
敬意をもって修行者、人に接するこ等・・・。他者を大切にし、とても人懐っこい性質へと彼らを仕上げているは暖かい気候も一つの要因であろうが、紛れもなく仏教の教えが彼らの心に深く根付いているからであろうと感じた。

 この国は正式名称をミャンマー連邦共和国といい、百を越える部族が集まって成り立っている。この度、一緒に式典参加し、ミャンマーを数十年行き来している人から聞いた話の中で、この国は本当に仏教の国なのだなと感じた話が一つある。

 「村の歴史や格式を見るにはパゴダ(仏塔)を見ればいい。村には必ずサンガ(僧院・お寺)があってそこに必ずパゴダを建てる。その塔を見れば、その村がお金持ちなのか、また古い歴史があるのかすぐ分かる。言いかえればパゴダの無い村は、村では無い。ミャンマーの人々は、一つの村があれば必ず村人がお金を出し合って共に大きなパゴダを建てるんだ。そしてそのパゴダと僧院を中心に生活を送る。これがミャンマー人なんだ。」

 私はこの話を聞いた時、もともと日本人の、自然を始め、ありとあらゆる全てのものに八百万(やおよろず)の神を見いだし、感謝と怖畏、つまりは敬意をもって暮らす姿が思い出された。
村には必ずお社(神社)があり、どこか近くには必ずお寺とお坊さんがいる、そんな暮らしぶりだ。
またミャンマーのお寺にも土着信仰的な神さまや、それぞれの生まれた曜日に関する神や神聖な動物も祀っており、水をかけたり供えものをして大切にしている。つまり、もともと精神的な所で日本人とミャンマー人は非常に似ている部分があるのだということを言いたい。
 だからこそ私は非常に興味深く、また期待と共に憂いをもってミャンマー国の近代化を見守ることとなるだろう。民主化が急激に進められるだろうこの国は、他国の熱いまなざしの中、資本流入によってどのような成長を遂げるのだろうか。
善き気付きを与えるお釈迦さまの教えと、日々を健康で幸せに暮らせるようにと見守る寺院が沢山ある。それを心の軸に置き、生活を送るミャンマーの人々。どうかその心の軸はいつまでもぶれること無くあって欲しい。

 明治期に日本は自分たちの信仰を破壊した。神と仏の調和(神社と寺院の共存)を取り壊し、戦後の高度経済成長ではそれをますます進め、日本人から信仰することを遠ざけた。信仰は見えぬものを敬うことであり、大切にすることである。
つまりは心を深め、豊かで健全な精神を鍛えることである。今の日本人はそれを永く遠ざけてしまい、忘れ去る所であった。
生まれ死ぬ連続の我々はいつまで経っても未熟の連続だ。ミャンマーとの交流はチャンスだ。確かに貧困国ではあるが、日本人が忘れてしまった心が未だ満ちている。どこか懐かしさを感じる国ミャンマー。
私たちの国は搾取する、搾取されるの関係を越えて付き合っていくべきだ。第二次大戦時に占領地とはしたが、他国と違し、沢山の技術文化を提供した時のように。

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