稲穂が育つほどに頭が下がっていくように、
人も学識や徳行が深まりいくほど自然とその態度は謙虚となっていくものです。
実際、最近聞いた話の中でも、
「社会で地位のある人と言われる人になってくると嫌でも、会う相手というのも敬意を払う人が増えていくので
頭を下げる機会は自然と多くなる」と、どなたかが言われていました。
確かにそうだな、と思った訳ですが、今日はある仏様のお話を少し交えながらお話いたしましょう。
常にすべての命を尊び、「世に敬わぬものなど無い。すべてのものは皆、いずれ仏となるものである」と、
すべての人々に対して礼拝をした仏がいます。
常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)さまと言われ、お釈迦さまの前世のお姿とも言われています。
私たちはついつい、人の表面ばかりをとって見て判断し、軽くみたり、侮(あなど)ったりしてしまいます。
よく皆さまに「実の如く自心を知る」、これを大切にしましょうとお話させて頂いていますが、
この菩薩はまさに自心の相(すがた)を如実(にょじつ)に見、同じく人々を如実に見ていた修行者であった訳です。
天台智者大師(ちしゃだいし)(智顗(ちぎ))の教えの中にこんな問答が書かれています。
「王が問うた。一切衆生(いっさいしゅじょう)(すべての生きもの)は仏そのものでは無いでしょう。
仏は答えた。もし、実の如くに衆生(しゅじょう)を見たならば、衆生はすなわち仏である」と。
実に見る、これを「見実三昧(けんじつさんまい)」といいます。
実に見たなら、すべては仏そのものであった。
その所以(ゆえん)は如何(いかん)とすれば、すべてのものには、
仏性(ぶっしょう)(仏のように慈悲と智恵の備わった性質)が備わっている故にと言う。
よくよく見たら、実はこうだった、なんてことがよくあると思います。
後になって、あの時の・・・は実はこういう事だったのか、という事もよくあると思います。
私たちはなかなか気付けません。
時が来たならば気付ける人もいますし、誰かの言葉によって気付く人もいます。
仏縁(ぶつえん)、仏の教え、一切の煩悩を離れていく修行方法に出遭い、智恵を得て気付けるようになる人もいるでしょう。
よく、虫の知らせが・・・という話があるように、徳積(とくづみ)のある人々はよくこのように言います。
あぁ、あの人が仏さまとなって、私に教えてくれたのだな、と。
いかに聞きにくい話であっても、その奥にある重要なお知らせに気付けたならば、
あなたの人生はまた少し違ったものとなってくることでしょう。
奥にあるものに気付ける。大切なことです。
その為には心を静め、寂静(じゃくじょう)にし、物事を観(み)る力を備えていなければならないでしょう。
さて、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)は
「私はあなたを軽んじ侮(あなど)りません。何故なら皆さん、菩薩(ぼさつ)の修行をして下さい。
そうすればあなたは如来となり、無上のさとりを得るからです」と言って回った。
実際にそんな事を言ってくる人がいたら、皆さま、どうでしょう。
ちょっと怖いと思われる方が大半でしょう。そりゃ怖いでしょう。
急に頼みもしないのに、あなたを馬鹿にしてません、みたいな事を言われるのですから。
当時の修行者たちは彼に対して、
無上のさとりの境地に行けるなどといい加減な予言をするやつだと怒り、時に泥や棒を投げつけもしました。
彼はすべてのものを軽んじなかったが、彼自身は人々から軽んじられた。
結局、この菩薩は死の間際(まぎわ)に如来が現れて多くの偉大な教えを聴き、
眼耳鼻舌身意(六根(ろっこん))の清らかなる(清浄性(しょうじょうせい))を得、
数にできない程の寿命を得ては、それからたくさんの生きものに対して教えを説き、さとりに導いたと説かれています。
この「軽んじない」というのは言いかえれば「随喜(ずいき)」するという事でもあります。
他人の善い行いに喜ぶことはもちろんのこと、他人のなかにも、
本来よりある、仏の心そのものを喜んでいくことが大切なことです。
善根功徳(ぜんこんくどく)を積み、徳行のある人となりましょう。